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コロナとふたつのお弁当──藤本恵

4月──。例年ならば、やわらかな春の陽射しの下で、少し緊張した面持ちの新入生を囲んで、にぎやかな声が響く大学キャンパス。
でも、2020年の春にその光景はなく、そのかわりに多くの大学ではじまったのが、オンラインによる授業でした。学生も教員も慣れない環境に戸惑い、「これが授業といえるのだろうか」と不安ばかりがつのる毎日。
そんな日々を経ていま、学びの場でやるべきこと、考えることは……?
武蔵野大学で教鞭をとる児童文学研究者で、一児の子育てにも奮闘中の藤本恵さんに、2020年春からをふりかえって、いまの思いを綴っていただきました。

藤本恵(ふじもと・めぐみ)
1973年、山口県に生まれる。児童文学研究者。2003年、論文「錯綜する物語――薫くみこ『十二歳の合い言葉』の魅力」で、第1回日本児童文学者協会評論新人賞〈佳作〉を受賞。近現代の物語や童謡、詩、絵本など、児童文学全体に対象を広げ研究をおこなっている。都留文科大学を経て、現在、武蔵野大学文学部日本文学文化学科教授。

■ひとつめのお弁当づくり

2020年4月。コロナは、私のところに、お弁当づくりという形でやってきました。

私は、大学3年生のときに出会った金子みすゞの詩を追いかけるために研究者を目指し、大学に職を得て十数年。キャリアを積むことに夢中でしたから、結婚、出産、家事、育児は引き延ばせるだけ引き延ばして結婚、出産をしました。

2020年は、40歳を過ぎて生まれた娘(愛称は、ごんちゃん)が小学校に入学する年。その春は、みなさんご存知のとおり異例づくしでした。小学校の入学式は参加者をしぼって行われ、授業は6月半ばまでありませんでした。
授業がない、学校に行けない、それはつまり給食がない、ということでもあります。きびしかった1回目の緊急事態宣言中も、かろうじて学童保育所を利用することはできました。ただし給食がありませんから、ほぼ毎日、お弁当を持たせなければならないのです。

家事のなかで一番苦手なのは料理だと、胸を張って言えます。夫は単身赴任中で、帰宅して私たちのために食事をつくれるのは土日だけ。平日の朝のお弁当づくりは、私が引き受けざるを得ません。週末のスーパーマーケットでは、ずっと「ゴンチャンノオベントウ、ゴンチャンノオベントウ……」と呪文をつぶやきながら買い物をしていて、娘と夫に笑われました。
これが、コロナ下で私の経験した(強いられた!)ひとつめのお弁当づくりです。

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▲ごんちゃんのためのお弁当

■はじめてのオンライン授業に七転八倒

大学では、オンライン授業が始まりました。現在の勤務先である武蔵野大学は、多くの大学がしたように2020年度前期の授業開始日を延期するということをしませんでした。学部2・3・4年生に対しては、予定どおり4月9日(木)に授業開始。大学構内には立ち入り禁止でしたから、もちろんリモートで。
ここで、リモートとかオンライン授業とか呼ばれるものには、3つくらいやり方があるということを説明しておいたほうがよいでしょうか。

オンライン授業の方法


私の所属する文学部では、授業開始後はじめの3回は①で行い、できるだけ早く、遅くとも4月の最終週からは②または③に移行するということになっていました。

なぜ、はじめから②や③でやらないのかというと、それはもちろん、できなかったからです。多くの教員に、②や③を行うために必要なツールとそれを使いこなす技術がありませんでした。大学にも、新しい授業形態を支えるのに十分な体制はありませんでした。
私たち大学教員の春休みは、新しいツールとそれを使用する技術を習得するために費やされました。大学からマニュアルが配布され、研修会が開かれました。危険をおかして対面で集まり、みなで難しい顔をしながら試用してみたこともありました。
個人的には、YouTubeの動画をたくさん見ました。マニュアルを読んでも身につかないのです、説明に使われている用語がわからないのですから。YouTubeの「先生」をまねることで、基本的な操作を覚えるしかありませんでした。

武蔵野大学ヘルプデスク修正

▲武蔵野大学の学生と教員向け
パソコンヘルプデスクのwebページ

■もう授業なんてできない!

そうして苦労したけれど、使えるようになりさえすれば、あとは対面でやってきた授業をオンラインでやればよいだけ……と、たかをくくっていました。でも実は、オンラインで対面授業を再現することは難しいのです。それに気づくまで、再現を試みては失敗し、心が折れました。学科教員にあてた4月後半のメールで、私は以下のように泣いています。

大学が目指しているというオンライン授業の良さも、先週と今週は全く感じることができませんでした。
対面授業では、学生は出席するだけで、教室という場をつくる大切な存在です。
大人数の講義では、自分から発言する学生はほとんどいません。
でも、何も言わなくても、表情や態度で教員に思いを伝え、教員はそれを受け取りながら試行錯誤して、授業をしていたと思います。(中略)
それで、先週も今週も、PCの画面のなかにいる学生(顔が映らないこともありますね)に向かって話していると、砂をかむような気持になりました。
オンラインの授業では、出席していても発言をしない学生は、存在しないのと同じです。
そして、そのことを意識して発言することのできる学生は、ごくわずかだと思います。(中略)
大学や授業に来るだけで、教員にとって大切な「何か」だった学生。
学生にとっても、とりあえず来るだけで「何か」が得られた大学や授業。
そういうものはオンラインのなかにはありません。
授業や大学から脱落してしまう学生が増えるだろう、それをキャッチするための努力が必要になるだろうと、強く感じています。

私自身は、こうして同僚や家族、友人に愚痴をこぼし、「もう授業なんてできない!」と叫びながら試行錯誤して、対面授業を再現するのではなく、オンライン用の新しい授業をつくらなければならないと悟りました。そのために、これまでとテーマや資料は同じでも、見せ方を変え、構成を調整しました。授業の準備に、いつもの2~3倍の時間がかかりました。
その一方で、いま引用したメールに書いたような「脱落してしまう学生」を「キャッチ」しにいかなければなりませんでした。ネット環境やPCの調子が悪くて、接続が途切れ、学生が授業への集中力を失くすことはたびたびありました。

「若い人はみんなICTに強い」というのは間違った思いこみです。とくに1年生のなかには、WordやExcelが使えないどころか、キーボードでタイピングができない学生もいます。大学入学にあたってPCを購入したものの電源を入れていない、入れてもセットアップできないという学生もいました。
そういう学生はとうぜん、大学や学部・学科からの情報を得られず、授業に参加できず、課題も提出できません。そして、私たちは学生の存在を確認できません。個別に安否確認のメールを書き、(メールをやりとりする方法がわからないという学生もいましたから)電話をかけることもありました。

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▲キャンパス入り口に設けられた検温所。
(武蔵野大学武蔵野キャンパスにて。2021年8月撮影)

大混乱の春を経て夏が始まり前期を終えるころには、オンライン授業の良さも感じられるようになりました。たとえば、通学や通勤に時間と体力を使わなくてすむのは、ありがたいことです。②の授業や、③の授業の録画を提供すれば、学生は都合のよい時間に何度でも視聴することができます。③の授業ではグループワークも可能ですし、チャット機能を使って、個々の意見や考えをやりとりすることもできました。

■2020年秋、対面授業で見た学生たちの瞳

やがて、小中高校ではほぼ通常授業を行えるようになり、大学だけオンライン授業を続ける秋が来ました。「大学生、とくに1年生に通学機会を!」という文科省の掛け声で、武蔵野大学文学部でも、1年生の必修科目「入門ゼミ」で一度だけ対面授業を行いました。

「入門ゼミ」は、複数の教員がそれぞれの専門分野について1回ずつ講義をするオムニバス科目です。学生は、「文学部日本文学文化学科」のなかで、どのような研究ができるのかを知り、2年生以降に所属するゼミを選ぶ手立てとします。
対面授業を行う週に講義を担当することになっていたのは、私でした。引き受けて、たいへん特殊な状況のなかで授業をすることになりました。

何が特殊かというと、まず、同僚の教員や上司が、イベントスタッフか警備員であるかのように立ち働いていました。
はじめて登校する1年生を、校門から教室まで誘導しなければならなかったからです。検温と消毒、出席者名簿にチェックを済ませるという関門もありました。教室でも自由に着席してもらうわけにはいきません。しかるべき距離をとるため、着席不可の座席があり、学生に注意を促す必要がありました。教室のうしろには、体調不良者が出たときに対応できるよう、授業時間中ずっと学科長がひかえていました。

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▲教室内のようす。学生が距離を置いて座るよう、
たがいちがいに「使用禁止」の座席がもうけられている。
(2021年8月撮影)

次に私を驚かせたのは学生です。いつものように教壇に立つと、集まった数十名の大学1年生が、小学1年生のように私を見つめたのです。
私は、ちょうど同じ週に、小1の娘のクラスで読み聞かせボランティアを経験したところでしたから、奇妙な既視感がありました。小学生に戻ってしまった大学生は、言葉ではなく目で問いかけています。

「大学って、どんなところ?」
「あなたはだれ? 怖くない? 信じていい?」
「授業はたのしい? 児童文学研究って、おもしろい?」

私の頭のなかには、『二十四の瞳』(壺井栄)の一節が浮かんでいました。「この瞳を、どうしてにごしてよいものか!」
岬の分教場で1年生に対面した大石先生は、こう感じていたのです。このときキャリア十数年の私も(不似合いに青臭いのですが)、新任の大石先生と同じように、自分の教員としての力をかけて、学生にこたえなければならないと思いました。

■安心感が満ちる教室で

「入門ゼミ」は、本来のゼミのような少人数ではなく、数十人への一斉講義ですし、この日は特別な工夫ができたわけではありません。
前年度と同じく、『白雪姫』というお伽噺の変遷を紹介し、それと児童文学ジャンルや児童文学研究、社会の変化を関わらせて考えるという講義をしました。感染防止のため長い会話をしてはいけないという制約のなか、短いグループワークを通して学生どうしの交流を促したことが、精一杯の対面授業らしさだったでしょうか。

それでも、学生が参加して変えたり、つくったりしていく授業の流れを感じることはできました。授業後の感想にあった言葉を借りると、学生も「対面ならではの空気感」や「緊張感」を共有して、90分の授業を「あっというま」だと感じられたようです。

なにより印象的だったのは、複数の学生が、クラスの「和やかな雰囲気」を感じて「安心感」をもてたという感想を書いていたことでした。実際に、この日の授業では、「分かりやすくまとめられた友達の意見」を聞いて、しぜんに拍手が起きる場面もありました。

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▲大学入学後はじめての対面授業で
学生たちが寄せた感想

先にも書きましたが、オンライン授業でも、お互いの意見や考えを交換することはできます。ただ、どうしても言葉が中心になって表情は伝わりにくいのです、ましてや目に見えないクラスの雰囲気は。
「対面」は「体面」に通じるのでしょう。体を教室に運んで、友だちの顔を見て、クラスの雰囲気を感じとる……そこで得られる安心感は、すべての学びの前提として求められるもののようです。

■ふたつめのお弁当づくり

この日の授業をとおして、私は、オンライン授業を「お弁当だ!」と感じるようになりました。お弁当は料理する人がつくりあげ、もりつけまでして提供するものです。つくったり食べたりする時間や場所を、食べる人とともにする必要はありません。
それに対して、対面授業は鍋料理のようなものです。鍋料理では材料の下ごしらえをする人はいますが、加熱は食卓で、みんなで仕上げて、みんなで食べることができます。材料を持ち寄ることもおもしろく、意外な食べ方やおいしさの発見が醍醐味。

鍋料理を弁当箱につめることができないのと同じように、対面授業をオンライン授業で再現することはできません。違う調理法で、違う良さを追求するしかないのです。そして、どちらが優れていると評価できるものではなく、これからは時と場合に応じて提供すべきものなのでしょう。これが、コロナ下で私の挑んだ(もしくは強いられた!)ふたつめのお弁当づくりでした。

■学ぶことは生きること、
そして未来を切りひらくこと

2種類の授業をお弁当と鍋料理にたとえてみて気づくのは、授業あるいは学びそのものが、人にとって食事と同じ、生存になくてはならないものだということです。
社会的な地位や経済力を得るためではなく(もちろん、それにつながることも無視できませんが)、それ以前に、一人ひとりの心身を健やかに保ち、それぞれの活動を十分に行う基盤として必要なものです。

コロナ禍のはじめ、「一斉休校」や「オンライン授業」という形で真っ先に切り捨てられたのが対面による教育だったことを、忘れないでいたいと思います。そのせいで、大学1年生が小学1年生に戻ってしまったのです。それが、私の眠っていた使命感をたたき起こす効果をもったことは先に書いたとおりですが、このような事態は、できるだけ避けなければなりません。コロナが収束するのはまだ先になりそうだからこそ、子どもや若い人たちの学びを止めない、後戻りさせない意思と工夫が今も必要です。

今年の夏休み、小学2年生になった娘は、学校からピカピカのPCを1台持ち帰りました。(例のGIGAスクール構想で貸与されたのです。)弁当箱に似た、この四角い空間もとりいれて、どんな新しい教室をつくれるのか、小学校から大学まで全教員が試されています。


自室トリミング
付箋

▲オンライン授業を配信する自宅のつくえ(上)。
授業や仕事で自宅の部屋に閉じこもる日がつづき、
窓にはられていた、ごんちゃんからのメッセージ(下)