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コロナ時代のボクの旅──小林 豊

『せかいいちうつくしいぼくの村』『えほん東京』などの絵本作品で知られる小林豊さん。
旅が好きで、中学生の頃から自宅のある東京・深川から自転車で千葉に行ったり、夏休みに1か月かけて四国をまわったりしていたそうです。
旅の魅力といえば、見知らぬ風景や人との出会い。でも、小林さんは「実際に遠くへ行かなくても、旅は楽しめるよ」といいます。
「withコロナ」の時代に、小林さんが楽しむ旅とはどんなものなのでしょう? 自身が暮らす土地への思い、自分流の旅を見つける楽しさをつづっていただきました。

小林豊(こばやし・ゆたか)
1946年、東京に生まれる。立教大学社会学部卒業。1970年代初めから80年代初めにかけて、欧州から中東・アジア諸国をたびたびおとずれ、その折の体験が作品制作の大きなテーマとなっている。内戦の続くアフガニスタンの小さな村を舞台にした『せかいいちうつくしいぼくの村』(産経児童出版文化賞フジテレビ賞)『ぼくの村にサーカスがきた』『せかいいちうつくしい村へかえる』のほか、『まち』『えほん北緯36度線』『とうさんとぼくと風のたび』『えほん東京』(以上、ポプラ社)、『ぼくの村にジュムレがおりた』(理論社)、『淀川ものがたり お船がきた日』(岩波書店)など、多数の絵本作品がある。

■2020年、東京空想旅行

 元号がかわって気分も一新──。
 という具合にならなかったばかりか、このところ立てつづけに自然災害に見舞われるし、今年は、年明けから世界中が新型コロナウイルスの猛威に振りまわされてしまうし、どうにも先の見通しの立たない時代となってしまいました。
 約束ごとはすべてキャンセル、空白の時間が目の前にポッカリ口を開けています。
 こんな時節に、何もできずに疫病につきまとわれて、無為に日々を過ごしてしまったのでは、人間として何ともなさけない。
 と、旅に出ることにしました。

 この旅はまず、地図を読むところからはじまります。ボクの暮らす東京の片隅にさえ、空想することが可能な縄文時代以降にかぎっても、1万年以上にわたって確かに存在した人間の暮らしがあります。
 埋め立てで海岸線は変わり、丘はけずりとられ、新しい道路ができました。土地の記憶が消えてしまわないうちに、東京の姿の変遷の現場を訪ねてみようと、江戸、明治、現在と3種の地図を用意し、見くらべます。

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これまで日本全国、世界各地を旅し
歩いてきた小林さん。
旅先で求めた小さなノートには
スケッチやメモがぎっしり

■東京は坂が多い

 東京を歩けば、標高差20メートルほどの坂に必ずつきあたる。
 名のある坂だけでも600か所以上もあり、名もない坂道まで入れたら大変な数になるでしょう。
「坂」にはもともと「異界との境(さかい)」の意味がありますから、そこは未知の世界へのおそれから、緊張して歩くところでした。

 しかし現在では、それらの坂も車両走行にあわせてきれいに舗装され、傾斜もゆるく、見通しがきき、周囲の街並みに吸収されてしまっています。
 数多くある「富士見坂」からは、新築のビルにさえぎられ富士山は見えず、「暗闇坂」や「幽霊坂」「地獄谷坂」などという恐ろしげな坂も、実際に歩いてみれば──
「どうしてここが?」と不思議に思うほど明るく、あっけらかんと間の抜けた場所になっています。
 渋谷の「道玄坂」だって、一説には、盗賊の巣だった場所で、道玄という悪党が坂の上の松の木の上から、下を通る旅人の衣装金銭をまきあげていたそうで、江戸時代までは「道玄物見の松」という老木が残っていたといいます。
 近世以降になっても「切支丹坂」「ゼームス坂」「ヘルマン坂」など異人と出会う場所、まさに坂は異界への入口であり、日常と非日常のけじめでした。

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ファイルまとまり

気に入った坂に出会ったらスケッチする。
ファイルには坂を描いたスケッチがたくさん

■東京の川

 坂が多い東京には谷も多い。
 その昔、サル族からわかれてひとり立ちしたボクたちヒト族の一団が、世界中を放浪して、この日本列島にたどりついたのが4万年ほど前のこととか──。
 その頃の地球は最後の氷河期の真っ最中。気温は現在より平均で8°Cも低かったようで、山々は氷河におおわれ、海ははるかかなたに退いて、今の東京湾も大阪の海も一望の陸でした。ヒトはケモノを追って「ハァハァ」と白い息をはきながら、広大な原を走りまわっていたようです。想像するだけで気が遠くなるほどうらやましい光景が目に浮かびますね。
 獲物を狩って帰った団らんのひと時、自慢して描いてみせた絵や語りの楽しさ、目を輝かせて聞く子どもたち。

 長い冬が終わり──。
 1万8000年ほど前のこと。氷河におおわれていた地球に春が訪れます。気温が上昇、今よりも3°Cも高かったようです。氷河がどんどんとけはじめます。温度が上がり水気が増せば、雨が降る。
 さて、この時代の東京(関東)はどんなようすだったかというと──。
 火山灰でできた関東ローム層におおわれた武蔵野台地は水をよく通し、下層の礫層に大量に滞水します。つまり台地の下には、巨大な水ガメがあるわけです。

 東京にはその礫層が地上に露出している場所があります。
 武蔵野台地の標高50メートル付近。南北線上に湧水がふきでる場所があります。北から、石神井池、三宝寺池、富士見池、善福寺池、井の頭池、高源院の弁天池。これらの湧水池より流れでる水流が、何万年ものあいだ、武蔵野台地をけずり、川となって数多くの谷を作りました。
 縄文時代はじめの世界的温暖気候は、巨大な氷河をとかし、大量の水を海へ流しこみ、その水量は世界の海面を70~150メートルも上昇させたといいます。
 関東平野の「海進」は、大宮台地の北まで進み、浦和の台が岬のように海に接していました。

 さあ、それまで自由に走りまわっていた生活の場は海進にともなって海の底に沈み、海に追われた人間たちは台地や、さらに内陸の谷筋に移り、流れのほとりにそれぞれ小さな集団を作って、定住するようになります。
 この場所こそが、今ボクらが見ることのできる、空想と現実の景色が合致するところ、貝塚や縄文遺跡と呼ばれる現場です。
 遺跡のあとを地図上でたどると、台地の崖線にそって、かつての海岸線が手にとるように、きれいに見えてきます。

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自作絵本『えほん東京』表紙絵。
かつての海岸線と現在の風景が重なる美しい東京が
描かれ、小林さんの東京を見つめる
やさしいまなざしが感じられる

■現場の風に吹かれる

 当時の人が見ていた風景を空想しましょう。そこは台地の谷筋から20メートルほどのぼった「坂」の上です。そこからは海が見えます。
 日々の糧を運んでくれる恵みの海。そして、時には姿を変え、人の命までうばってしまう荒れ狂う魔物たちの住む世界。
 大地に定住した人々はこの地に生き、世代を重ね、土中深くその足跡を残しています。集落の中心に死者を祀り、そのまわりで輪になって踊りました。相撲のシコを踏むように力を込め、死者の魂をなぐさめるため踊りました。これが今ある盆踊りの原型です。

 そんな「現場」をたずねてみます。
 ボクの家の近くに「大森貝塚」があります。東海道線を敷設する際、1877(明治10)年に発掘された縄文後期の遺跡です。線路の下は海でした。現在ではビルと商店に囲まれていますが、この一帯には縄文から弥生時代にかけての生活圏が住宅街の下に広がっています。

2川の跡と先生_H650px

大森駅近くの細道にて。
「この道はもともと川が流れていたんだ」
道のカーブが川だったころの記憶を感じさせる

 その地面の上を縄文人のように大股で注意深く歩きます。遺跡のはずれのくぼ地にかつての川の跡を見つけました。くぼんだ地形が公園を通り、うねうねと曲がりくねりながら家々の庭をつっきって、続いています。

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上下水道のマンホールが並ぶ細い道。
「道のマンホールも川の記憶を伝えてくれるね」

 しっかりフタをされ、生活道路として買い物帰りの自転車が走りぬける地面の下から、たしかに水の流れる音が聞こえてきます。水流はまだ生きています。
 道はどんどん細くなり、わずかに傾斜する小道をのぼりつめると、まばらな雑木に囲まれて、「社(やしろ)」(水神社)がありました。社の裏手の駐車スペースの一角に、半分フタをされた湧水池がひっそりと水をたたえていました。のぞきこむと池底からきれいな水が湧きあがってきています。

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住宅街の中の湧水池。カメがのんびりこうら干し

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水神社わきには「水神池」と刻まれた碑がある

 古代の人々がここに水の神を祀り、何千年ものあいだ大切に使われつづけてきたであろう水源。
 この清流にこの地域の旧村名をとって勝手に「原川」と名づけ、その足で河口も調査。旅を満喫して帰りました。

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大森の水神社前にて

■遠くへ行くだけが旅じゃない

 この“まち”の長い歴史、危機を乗りこえ復活してきた力は、土地にひそむ「あそび」にあります。
 それは今も残る、東京の海と山と谷のもつ特別の地形に起因します。フタをされても低きに流れる水流、建物にさえぎられようが谷を渡って吹く風に。それを保障する足下の「水ガメ」。いくらけじめもなく都市化されようとも、この土地には何者も制御しきれない変幻自在な「あそび」があるのです。
 だから、同じ現場にいあわせても、何を見、どう記憶するか、個人差は無数。その差異のすりあわせが歴史書です。
 
 さあ、あなたの身近にある埋もれた土地の息吹を感じながら、あなたの景色を訪ねるいいチャンスじゃないですか!