『コンビニたそがれ堂 夜想曲』 村山早紀さんの著者校を前に思ったこと
村山早紀さんから『コンビニたそがれ堂 夜想曲』の著者校正のゲラ(印刷前のチェック用の紙束)がもどってきた日のこと。会社の席はフリーアドレスで、その日はアルバイトのOさんの隣に座った。わたしは話のつづきを聞きたくて、「すこし時間をもらえる?」と彼女に声をかけた。「話のつづき」というのはちょっと前に、Oさんが子どもの頃から村山早紀さんの本が好きだったことを知り、どんなふうに出会い、読んできたのかを詳しく聞いてみたくなったのだ。
彼女が村山作品と出会ったのは、小学校の5年生の頃だという。北海道に暮らし、中学受験のための塾に通っていた。でも、だんだんしんどくなってしまった。毎週テストで席順が決まるような塾で、競争ばかりの毎日がいやになり、受験はしないことにしたという。塾をやめると時間ができた。そんなある日、お母さんが買ってきてくれたのが、『コンビニたそがれ堂』の1巻目だった。「読んだ時のことを覚えていますか?」と聞くと、「もちろん覚えています」と、そのときの印象を話してくれた。
「たそがれ堂はファンタジーですよね。でも、わたしが思っていたファンタジーとは違いました。ファンタジーというと外国のカタカナの名前がいっぱい出てくるような、とっつきにくい印象でした。でも、たそがれ堂はすぐにお話の世界に入っていけました。キツネの神様が店主、ほんとうにどこかにいるかもしれない、わたしのことも守ってくれるんじゃないか、そんなふうに思いました。「桜の声」というお話で、桜子さんがコンビニたそがれ堂でおでんの牛すじを食べるシーンがありますよね。すごくおいしそうで、親にせがんでおでんに入れてもらったのをおぼえています。それから、「手をつないで」という作品にネグレクト気味のお母さんが出てくるんですが、驚いたんです。ああ、大人も失敗するんだなって。大人も大変なんだって。ほんとうにすてきな作品でした。わたしにとって生まれて初めての自分の本が村山先生の本なんです」
わたしは著者校の赤字を引き写しながら、彼女が話してくれた言葉を思い出していた。「大人も失敗するんだなって」といったときの、Oさんのほっとしたような柔らかな笑顔。親からプレゼントされた本の感想をいまも鮮明に覚えているということ。数あるアルバイト先のなかからポプラ社を選んでくれたこと。その人が今、わたしたち編集者の仕事を陰で支えてくれていること。物語はめぐるのだ。「本って、すごい」。そう思って、またゲラの続きを読む。主人公が、ピアノの鍵盤に指を置く場面。
「冷たい滑らかな感触は、ひとに慣れた小さな獣が、そっと頭をこすりつけてくるように、優しく指を押し返し、静かで澄んだ音が、夜が近い路地に水面の波紋のように広がってゆきました。」
赤字を転記しながら、立ち止まってしまう。この第一話「ノクターン」は著名なピアニストになった男性が故郷にもどって演奏をするという話だが、主人公の指先がふれた瞬間に鍵盤から流れ出す音には、なんと多く思いが流れ込んでいるのだろう!
編集の終盤にあたるこの作業は、冷静かつ慎重に進めなければならない。だが、ときとして、赤字のひとつで鮮明になった文の心が改めて迫ってきて、胸がいっぱいになってしまうこともある。「落ち着いて」と自分に言い聞かせ、また読み返す。指でたどるようにして確かめていく。すべての赤字がきちんと転記されているかどうかを、くりかえしチェックし、どうしてもわからない場合には著者に問い合わせてから、ゲラに「要確認」として貼り付けていた付箋をはがし、この作業が終わる。
村山さんの書き込みを読んでいていつも思うのは、一文字の力だ。それは言葉の奥にあるもの、心そのものを読者といっそう深くわかちあおうとする願いの閃光のような一筆なのだ。
歌い方には二通りの歌い方がある、と言ったのはトルストイだった。二通りとは、「のどで歌う方法」と「胸で歌う方法」で「文学も同じである」という。文章は「頭から書くこと」もできるし、「心から書くこと」もできるが、自分は「ただただ心から書くようにつとめたのである」と記している。(デビュー作『幼年時代』の草稿には「読者へ」というのメッセージがあったとして、岩波文庫『幼年時代』で訳者の藤沼貴氏が紹介している)。
「胸で歌う」からこそ、読者はそれを「胸で聴く」のだろう。世代をこえて多くの読者に愛されてきた「コンビニたそがれ堂シリーズ」の本編、ついに10巻目となりました。わたしにはとても面白く、そして心を満たしてくれる作品ばかりでした。久しぶりの「たそがれ堂」、どうぞ楽しんでくださいますように。
編集担当:野村浩介
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