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倉数茂『忘れられたその場所で、』全文配信(※第一章を無料公開)

5月17日に発売になる、倉数茂の小説『忘れられたその場所で、』を、noteにて有料配信いたします。

第一章を無料公開しておりますので、作品の空気感をお楽しみくださいませ。

(▲公開にあたっての想いはこちら)

読み終えられた方は、ぜひ「#忘れられたその場所で、」で感想をつぶやいていただけましたら。みなさまの感想を伺えるのを、どきどきしながらお待ちしております! それでは、どうぞ。


忘れられたその場所で、カバー


1

 髪の毛の先をツッとかすめた。
 つづけて幾つも白い影が落ちた。
 目をあげると暗い空から尽きることなく雪片が落ちてくる。しばらくのあいだ空を眺めてから、本降りになる前に帰らなくちゃと足を速めた。
 最初のひとひらが落ちてくる瞬間を見てみたい。滴原美和はそう思っていた。けれども降り出したと気づいて頭をあげたときには空の奥まで一面の雪で真っ白だ。いつのまにか降りはじめ、いつのまにか降りやむのが雪であって、天から落ちてくる最初と最後のひとひらは、誰にも見ることが叶わないのだった。
 それでも降りはじめの数分はわくわくする。学校でそう言うと、滴原さんは都会っ子だからとみんなが笑った。生まれたときから北国に住んでると、寒いし暗いしどこにも行けないし、冬なんてほーんとうんざり。わたし、いつか沖縄に住んでみたい。それじゃなければソウルに住みたい。
 なんでソウルなんだよと誰かがまぜっかえし、だってほら、韓国の男ってみんなイケメンじゃんとクラスメートは返事をする。んなわけねーだろ、それって韓流ドラマの見過ぎだろ。でもさほら韓国の男って兵役あるからさ、ガタイがいいよね、筋肉がセクシーだよね。出た、サユミの筋フェチ、筋エロ。
 こんなとき、美和はうまく周りに合わせることができない。笑うタイミングが一拍ずれるし、態度がなんだかぎこちないと言われたこともある。最初は注目の的だった東京からの転校生も、とっくに暗くてとっつきにくいただの人に変わっただろうと思っている。そっちの方が気楽でずっといい。
 それでもあきらめずになんとか仲良くなろうと粘る子もいて、その中でも一番強引なのが春奈だった。今日はその春奈の誘いを断りきれず、フードコートのたこ焼きをつつきながら三十分、見込みのない恋の話に付き合わされて帰る途中だった。
 美和は幼いころ不思議な影を見ることがあった。街角にすっと佇んでいる人。建物の隙間で背中を向けてうつむく人。やがて他人にそうした姿は見えないのだと気づいてから、見たことをいちいち口にしないようになった。二度ほど奇妙な事件に巻き込まれた経験も、何も言わない方がいいのだという気持ちを後押しした。そのうち自然に人影を見なくなっていたのだが、十五になったころからまた目にするようになった。
 そのことと、朝になると激しい腹痛に襲われて、起き上がれなくなったのとはどのように関わるのか、あるいは関わらないのか。学校のある日に限って、朝からシーツの上で腹部をおさえて丸くなった。歯を食いしばり、うめき声が漏れないように気をつける。脂汗がこめかみに浮かぶのがわかる。
 内科医も婦人科医も検知可能な異常はないと言い、精神科の医師はしばらく学校を休むしかないでしょうと言った。そして美和本人は、祖父の家のある町への転校を申し出た。今その家には盛岡の大学に通っている兄が一人で暮らしており、祖父自身は二年前に亡くなっている。美和にとっては思い出のある家だった。両親は顔を見合わせたが、学校に行けないのでは仕方がない、引きこもりになるよりはいいだろうということで、転校手続きが始まった。
 入って一年半で最初の高校を辞める結果になった。一応志望校だった。周りはみんな賢く美しくセンスのいい女の子たちばかりだった。そのことに引け目を感じていたのだろうか。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。
 引越し先は以前住んでいたところと比べればずっと建物も人も少ない小さな町だったが、そのことは嫌ではなかった。人の歩いていない街道、刈り取りの終わった田んぼ、放置されたままの農機具、窓ガラスの曇った洋品店。
 なぜだかその荒涼とした風景がしっくりと心になずむ。
 十一月の声を聞いてから頻繁に雪が降るようになった。なるほど雪というのは厄介なものだとだんだんわかってきた。東京では一晩で消えてしまう魔法も、ここでは日々分厚く積み重なっていく逃げようのない現実だ。ゆっくり慎重にしか歩けないし、うっかり転べば怪我だってする。インドア派だとばかり思っていた兄の千秋が、意外と達者に雪下ろしに励むのには感心した。自分も屋根に登ってみたいと頼んだが、あっさり無視された。
 秋が深まり徐々に冬に移ってゆくに連れて、本当に冬が越せるのか少し不安になってくる。まず大気の硬さ、冷たさが東京とは全然違う。家を出た瞬間に、鉄の板に体をぶつけたような衝撃がある。クラスメートたちは凍結した道を自転車ですいすい走っていくが、自分にはとても無理だ。時間をかけて歩いて通うしかない。
 だから放課後あまり寄り道しないように気をつけていたのに、今日はうっかりしてしまったと美和は後悔した。太陽が山の端に沈むのが四時半ごろ、五時を回ると本格的に暗くなる。
 ちらつく雪の向こう側に見慣れぬ建物が幾棟も並んでいるのに気づいて困惑する。ここは一本道だから迷ったはずはない。なんだか不思議と懐かしい感じのする町並みだった。同じ形をしたクリーム色の平屋建て。古い公団のような四角い集合住宅。車止めポールのある細い道と常緑の植木。父母の子供時代のアルバムから抜け出してきたような風景で、なんだかここだけ時間が止まっているみたい、と美和は思う。
 どこかの団地に迷い込んでしまったのだろうか。見わたして、いつもの通学路が建物と植木の隙間から見えていることを確認して安心した。よかった。ちょっと道を逸れただけ。それにしてもこんな建物ここにあったっけ? 毎日通っている道なのに気がつかないなんてなんだかおかしい。
 以前に読んだ萩原朔太郎の『猫町』を思い出す。
 散歩ばかりしている詩人が道に迷う話だ。家の近くで迷っているうちに見慣れぬ美しい街に行きあう。清潔な街路と素敵な街並み。生い茂った花樹と品のある人々。陶酔した詩人はしばらく彷徨ったあとに、自分は普段見慣れた通りをいつもとは違う方角から歩いてきただけだと気がつく。その途端、魅惑の街は一気に近所の平凡な通りへと色褪せる。錯覚が生んだひとときの白日夢。いま自分が体験しているのもきっとそれだ。たぶんもうじきよく知っている場所だと気がついて、なあんだ、と思うのだ。
 だけどいつまで経っても幻想の風船は破裂せず、街は古色を保ったまま両側に広がっていた。そればかりかあちこちの建物の窓から、美和を眺めて微笑む影さえある。汚れたガラスやカーテンのせいでよく見えないけど、眉のない顔、いびつに曲がった手、普通の人とはちょっぴり違った姿形の年寄りたちが集まってこちらを見ている。
 あまり見かけない女の子がやってきたよ、誰だろ、可愛らしいねえ、そんな音のない囁きが聞こえる気がして美和は少し照れ臭い。手を振り返したらやっぱりおかしいだろうか。あえてなにも気づいてないふりをして歩いていく。
 だが杉並木のあいだを通り過ぎ、団地めいた建物群の外れまで来たとき、美和は鋭い視線を感じてハッとした。これまでとは違う、強い、敵意さえ加わったまなざし。ぽつねんと建った木造平屋建てから年配の男がまっすぐにこちらを睨んでいる。
 なにか怒られるようなことをしただろうかと歩きながら忙しく考える。ここは私有地で余所者は立ち入り禁止とか。だけど掲示があったわけではないし、意図して入りこんだわけでもない。どうしたってこちらに落ち度があるとは思えない。無視してさりげなく歩き過ぎよう。
 だがそのうち男がこちらを見ているのかどうかすら怪しくなってきた。彼女が位置を変えても、男は身じろぎひとつしないのだ。まるで木彫りの彫像か何かのように男は細い身体を窓際で支えている。窓のある側が陰になっていて、男の顔立ちや表情はわからない。
 近づくにつれて、奇妙な印象はますます強まった。窓が開けっ放しのため、男の髪の毛にどうやら雪が積もりかけているようだ。雪を払うのも忘れるほど、一生懸命に何かを見つめているのだろうか? だが視線の先をたどっても何も見当たらない。病人なのか、認知症が進んで動けないのか。
 美和はそれまで横目で男の姿をうかがっていたのをやめて、はっきりと進む方角を変えた。男のまなざしがずっと遠くに向けられているのを感じる。アスファルトに積もった薄い雪を踏みしめて家屋に近づいていくと、男の顔が怒りとも痛みともつかないもので歪んでいるのが見分けられた。そして、相変わらず数メートル手前の美和には目もくれない。靴の下でなにかが鳴った。ガラスの破片だ。半ば雪に埋もれている。
 おかしい。ようやく美和ははっきりと自覚した。これは普通の状態ではない。ガラスがほとんど割れ落ちた窓際に置かれた椅子に座って男は外を眺めている。ちらちらと舞う雪が直接男の顔にぶつかってもよけようとしない。
 美和は屋根に積もった雪がいまにも落ちそうになってきているのに注意しながら軒下に立った。そしてふりかえって息を吞んだ。
 背後の町並みがすっかり消えている。建物の姿がひとつもなく、何もない空間で雪がぐるぐると渦を巻いている。風がずいぶんと強くなっていることに気がついた。刺すような風が顔のそばを音を立てて吹き抜けるが、美和がはっきりと感じているのは、それよりも体の底から這い上がってくる震えだった。
 ゆっくりと男の方に向き直る。
 ずいぶんと年寄りだ。ずっとかっと見開かれていると思いこんでいた両眼は、実のところ白く濁っている。睫毛に細かい霜がついてキラキラ光っていた。凍りついているのだ。睫毛も眼球も、おそらくは内部の組織も。
 美和はもう一歩近づいて、男の方に手を伸ばした。その瞬間、足元がすべってバランスを崩し、手の甲が男のふくらはぎにぶつかった。その衝撃を受けて、男は椅子から滑り落ちると、鈍い音を立てて仰向けに横たわった。思わず飛び退いた美和は、身動きもできずに宙を睨む男の顔を眺めていた。

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