「年の暮」の歌人たち/十二月の短歌
画像:生野源太郎『草にをどる』所収。「南独kairswertにて」とキャプションがある。ドイツ、デュッセルドルフの都市カイザースヴェルト(Kaiserswerth)か。
国会図書館でタイトル「歌集」、目次「年の暮」で検索すると12冊の本がヒットする。『藤田東湖全集』が3冊(1冊は新版)、安達鏡子『二春と一と夏 遠き子らへと』が2冊あるから正確には9人10冊だ。
筆者はこの10人を誰も知らない。勉強不足もあるが、多くは忘れられた歌人だと思う。
彼らにも年の暮があり、それを詠んでいたことが、同じ短歌定型を愛する者として妙に胸を打つ。これも年の暮だからに違いないが……。
彼ら・彼女らの短歌を読んでいきたいと思う。
向山萍花『鳥榕』
向山萍花の著作はほかにない。また、名前を検索しても全くヒットしない。現状『鳥榕』が唯一の情報源となる。
向山萍花「自序」から引用した。向山は続けて、大正期のいまは「歌の黎明期」であり、その「新調」に影響を受けて歌を作りはじめたという。歌作の理由はもうひとつある。
向山は「第三高等女学校」の教師であり、奥付の住所は「台北市佐久間町一丁目一番地」となっている。また、本書の後半には「ひろへるたま」と題されて教職員や学生の歌とみられるものがまとめられている。教員の名前を検索すると、多くが『台湾総督府職員録』に掲載されている。
つまり、この歌集は日本の統治下に置かれた戦前の台湾において、台湾第三高等女学校の教員である向山萍花の短歌を中心とし、教職員および学生の短歌を拾遺したものである。
筆者は当時の台湾について充分な見識を持たないため、下記リンクに代えさせていただく。
すこしだけ台湾の自然詠を引用する。
「基隆」「観音山」を検索すれば台湾の地名と分かる。「南国」とは台湾のことだ。
歌集にはコスモスの歌が多い。それは向山にとって故郷の花であり、台湾に咲く花でもあった。
さて、「年の暮に」と題された一首の作者は池邉朝子。「ひろへるたま」に載せられており、学生の歌とみられる。
頼りにするものがない太陽や月の光も、まぶしく感じられて私には顔を合わせることができない。病に伏して過ごした今年を思い起こせば。
中村美穂編著『日方』
中村美穂(1895-1941)は盲聾学校の教員・校長。『アララギ』に入会して島木赤彦に師事すると、1928年に「みづがき」を創刊した。『日方』は「みづがき」同人の歌を選出したものである。
「年の暮」の歌のみを載せる。
餅は古くから縁起物だった。昔の人々は、正月に鏡餅を飾り雑煮を食べるために「貸餅」屋を利用したのだろう。代わりに餅をついてくれる店のことだ。
「大根なます」はいまでも縁起物だが、「びんぼう神をおい出す習慣」があったことは知らなかった。大晦日の暮れどき、「大根をきざむ音聞えくる」家には妙な感慨に誘われる。
生野源太郎『草にをどる』
生野源太郎についてはよく分からないが、「歌と観照」の同人であったらしい。「歌と観照」は岡山巌が1931年に創刊した結社誌で今も続いている。
生野の第一歌集『手を挙げてうたへる』は1919年、『草にをどる』が第二歌集で1934年である。「歌と観照」に名前が確認できるのは1948年3月から1960年4月まで。20世紀初頭に生まれ、60年代に亡くなったと考えればいいだろうか。
目次には「マイアミの冬」「キー・ウエストの二月」「メキシカリの女たち」などがあり、非常に心惹かれる。少しだけ紹介しておこう。
最も衝撃的なのは「クリスマス・イーヴの屠殺場 ―Swift & Co., Chicago, Illinois, u. s. a. 」だった。序文にもあるが、生野は社会運動に関心があったらしい。
くだくだしい説明は不要だろう。直接的な表現の歌は省いたため、気になる方は元の歌群を見てほしい。この短歌は記憶されるべきだと思う。
さて、「年の暮れ」の短歌を引用する。1933年12月31日の東中野の歌だ。
『藤田東湖全集 第三卷』
デジタルコレクションには『藤田東湖全集 第三巻』(1935)が二冊、『新釈 藤田東湖全集 第三巻』(1944)が一冊登録されている。ここでは新釈を使う。
藤田東湖(1806-1855)は江戸時代の水戸藩士、水戸学者。天保の改革に際しては徳川斉昭の側近として活躍し、1840年には側用人に抜擢された。斉昭の失脚に伴い罷免されるも、1854年には側用人に再任。安政の改革を推進するが江戸大地震で命を落とした。尊攘思想を唱えた人物であるため、戦時下の1944年に新釈が出たのはそういうことだろう。
年の暮に関わるのは「四十の春をむかへんとしける年の暮に」と題された一首である。
注釈によると徳川斉昭が失脚し幕府から閑居を命じられた年の多であるらしい。「梓弓」は「矢」を導く枕詞。「老てふ数にいらん」は「老人の仲間に入る」意である。
戦前は数え年が一般的だった。正月になると全国民が一斉に歳をとる。「老てふ数にいらんと思へは」とはそのような感慨だったのである。また、年の暮が「春」というのも旧暦の価値観であった。
福田青蘭『朝霧』
福田青蘭は1929年に「潮音」に参加。1932年に同人の鈴木北渓が「短歌街」を創刊すると随行した(巻末記)。鈴木北渓はなかなかの大物で、歌作は与謝野鉄幹に出発し、のち「潮音」に参加すると最も重要な同人になったらしい。「潮音」の観念的象徴主義やプロレタリア文学の影響に違和感を覚えた北渓は結社誌「短歌街」を創刊する(参照)。「短歌街」は「若い人々の短歌と歌論を収めた短歌雑誌」であった(参照)。
「年の暮」の短歌は次の五首。全て引く。
安達鏡子『二春と一と夏 : 遠き子らへと』
安達鏡子の情報は少ないが、夫の安達峰一郎(1869-1934)は著名な人物である。外交官・国際法学者で、ポーツマス会議では小村寿太郎の随員として活躍する。駐メキシコ公使、駐ベルギー公使などを歴任し、ヴェルサイユ講和条約や国際連盟の諸会議で多大な活躍を見せた。国際連盟の総会には度々日本代表として出席する。国際連盟が創設した常設国際司法裁判所の裁判官に選出されるも、この時期日本が満州事変により国際連盟を脱退してしまう。翌年アムステルダムで生涯を終えると、オランダで国葬が行われた。いまでも安達峰一郎記念財団が安達峰一郎記念奨学金と安達峰一郎記念賞を続けている。
安達鏡子の歌集は『二春と一と夏 : 遠き子らへと』(1938)、『一と端影 : 遠き子らへ』(1940)、『夫安達峰一郎』(1960)の三冊である。『夫安達峰一郎』によると、安達鏡子は1917年から夫と共にベルギーへ向かい、1958年まで日本に帰ることがなかったという。また、現地では「顕官淑女」としてよく知られていたらしい。様々興味深いが調査する余裕がない。なお、同書には「宮中御用掛当時の私」として次の華々しい写真がある。渡欧する前のものだろうか。
『二春と一と夏 : 遠き子らへと』の「年の暮に遠き娘へ」という題をみると、子どもを日本に残していたのだろう。歌よりも背景が気になる歌人であった。
『藤岡林城謌集』
『藤岡林城謌集』は遺歌集である。年譜によると、藤岡林城(1891-1936)は1914年に「狐の巣」(北原放二主宰)、1916ごろに「水甕」(尾上柴舟ほか)に参加する。1920年に「水甕」を抜け、一時歌作から離れるが、1933年に「草炎」に参加する。煩瑣になるため個々の歌誌については省略する。
「巻末記」によると、『藤岡林城謌集』は彼を知る「誰もが一日も早く実現されむ事を希つた」ものだという。
「年の暮」から歌を引く。
新年の縁起物としての独楽か、単におもちゃとしての独楽か。いずれにしても景がよく見える連作である。四首目「ゆふひ照る」の位置は絶妙だと思う。なお、本書は増補版を予定していたが果たされなかったらしい。
東元慶喜『満濡抄』
東元慶喜は駒沢大学仏教学部の教授であった。多くの論文・単著があり、『早春』(1974)『盛春』(1983)という自伝もある。後者はデジタルコレクションで見れるがいまは見る余裕がない。
『満濡抄』出版の経緯は「あとがき」に詳しい。元々は父の霊前に供えるために歌集を編んでいたが、1966年の6月に母が急死してしまい、母の短歌や俳句を「附録」として追補したのが本書だという。
「年の暮」は母の歌であるため、本人の歌を若干引いておく。
「年の暮」の歌を引く。
ともに平明な歌だが、あえてそのように作っているのだろう。
あとがき
「年の暮」の短歌のみを探すつもりだったが、これほどまでに多彩な歌人に出会えるとは思わなかった。歌も日本にとどまらず世界中の都市でつくられている。
12月31日を丸ごと使うことになったが、大変心地いい時間だった。もういない、思い出す人もいないであろう歌人の歌を読むことは万感の思いに掻き立てられる。思えば今年は「関東大震災と短歌」をはじめとしてこのような記事を多く書いてきた。
短歌はいいものだ。来年も読んでいきたい。
付・『秀歌十二月』十二月
このnoteは前川佐美雄『秀歌十二月』読書会との関連で執筆されました。
『秀歌十二月』は古典和歌から近代短歌にわたる150首余の歌を一二ヵ月にわけて鑑賞したものです。立項外の歌を含めると400首ほどになると思われます。
『秀歌十二月』の初版は1965年、筑摩書房から刊行されました。これは国会図書館デジタルコレクションで閲覧……できなくなりました。同書は2023年5月に講談社学術文庫から復刊されています。
読書会を円滑に進めるため、歌に語釈・現代語訳などを付したレジュメを作成しました。疑問点などあればお問い合わせください。レジュメはぽっぷこーんじぇるが作成していますが、桃井御酒さんの詳細な補正を受けています。
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