春のたべもの短歌会 ぽっぷこーんじぇるの好物に祟なし選
ひとつめの評はこちらです!
実のある話
○松あん子さんの歌○
たとえばツイッターのFFとは、短歌や俳句の話はするけれど、私生活の話はあまりしなそうです。一方で学校や職場の人と話すときには、私生活の話はしても、文学や短歌の話はしないのではないでしょうか。現実では受験や就職、仕事や恋愛の話ばかりで疲れてしまうかもしれません。
この文章を読むような人たちは、「実」にならない短歌のほうが自分の生を表現してくれると思っているのではないでしょうか。たしかに友人と「実のある話しか」できないのは「さみし」いことです。「そら豆」の形やそれを食べる繊細な指の動きが、なんだかとても悲しく見えてくる歌でした。
何も知らなかったころ
○十迷色さんの歌○
年齢を重ねてからみると、「野いちご」とか「花の蜜」はきれいとは言えなくなりますね。大人になったことで世界の解像度が上がったことを喜ぶべきなのでしょうが、一方で当時の無邪気さが懐かしくなり、ちょっと泣きたくなります。
何も知らないからこそ何でもできるのでしょう。子どもたちは頭の中でサッカー選手になっているし、パティシエになっているし、剣士に、魔法使いになっています。
ある意味では、そうした空想の世界を保存するのが文学、映画、漫画などの役目であるかもしれません。そして、だからこそ「無敵」だったころの気持ちを忘れたくないと切に思います。何度も、貪欲に、思い出を「食」べていく必要がありそうです。……歌の評から話が逸れてしまいました。
この歌は次の連作中の一首となっています。
「ていねいに」食べる
○ひの朱寝さんの歌○
性欲と食欲の結びつけは、しばしば暴力的な形で表れます。たとえば俵万智さんの「焼き肉とグラタンが好きという少女よ私はあなたのお父さんが好き」(『チョコレート革命』)はグロテスクな歌として読むのが正当でしょう。
「女性を食った」というスラングは嫌いですが、この言葉には「男性から女性にアプローチをし、行為に至る」という構造が端的に表れています。俵万智さんの歌も「食われる」はずの女が男を「焼き肉とグラタン」のように選ぶという反転が強烈に響いてくるわけです。
さて、この歌は「おひたし」や二度の「ていねいに」から分かるように、暴力的なまなざしは薄められています。構造は変わっていません。しかし、そこには二人だけのささやかな世界があります。
絶妙なバランスの歌です。「私」は食材のように扱われることを受け入れているようです。それは二人だけの世界だからです。性的な関係とは、あるいは人間とたべものの関係とは、本当はこのような形であるのかもしれません。
この歌は次の連作中の一首となっています。
いろんな春
○星谷麦さんの歌○
月では「朧月」と「春の月」が春の季語になっています。
春は「霞」が季語になっていることもあって、水っぽくぼやけるようなイメージがあります。そのようにかすんで見える月を「朧月」といいます。
「朧月」がぼやけた月を担当するなら、「春の月」は濡れたように鮮やかな月を表します。丸く、明るく、滴るような月でしょうか。
この歌の「満月」は両方の要素を持っていそうです。月は「やわらかい」ですが、同時に大きく光り輝いています。
「満月の色も……やわらかい」なので、大気全体から主体の心情まですべてが「やわらかい」のでしょう。そんな日には麦色の「筍ごはん」がぴったりです。とっても春らしくおいしそうな歌でした。
○薫子さんの歌○
とても好きな歌ですが、新春の清新さを詠んでいるのか、楽しく面白い歌なのか迷うところがあります。
春先に流通する野菜はよく「新」をつけて売り出されます。そんな野菜を集めて「新カレー」をつくれば、なによりも春らしい、春の訪れを一挙に感じられる料理ができることでしょう。
ただ、「新カレー」という言い方にはおかしみがあります。なにが「新」なんだろう。別にカレーの見た目や味に大きな変化があったわけではありません。「新カレーかな」という詠嘆も面白さを助長させているように思えます。そもそも、「新じゃがいも」なども別に品種が違うわけではありませんね。
それでも「新カレー」と呼びたくなる気持ちが主体にはあるのでしょう。そうして何もかも「新」とつけたくなるのが新春という時節です。春の気持ちを楽しく表現した歌だと思いました。
○さんとさんの歌○
そういえばキャベツは新キャベツとは呼びませんね。理由はよくわかりませんでしたが、春キャベツは季節そのものを背負っている感じがします。
「1枚1枚」むかれることで、「黄緑」は花が咲くように、野原が敷かれるように広がっていきます。
それは時間の流れにそって緑を広げる春そのものの姿なのかもしれません。春キャベツが「軽やか」に春全体を表現しています。
○梅鶏さんの歌○
顔は雄弁です。誰かの顔をまじまじと見たとき、その凹凸が、表情が、目や口の動きが、その人の人となりを豊かに語りかけてくるような経験は誰にでもあるのではないでしょうか。これは美醜の判断とは別のものです。むしろ歪んだような、疲れたような、やさぐれたような表情こそが心を揺さぶります。
おそらくカップルか夫婦でしょう。相手の私生活か職場での苦難がようやく解決しはじめ、「ホットミルク」を飲んだときにふと表情がやわらいだのです。「春」ですから環境が変わったのでしょうか。それともまだ寒さの残る早春で、積年の苦労が実を結びはじめたのかもしれません。
顔つきが一新されることはありません。今までの苦しい顔つきの上に、やわらかな表情が広がりはじめたのです。掛け替えのない一瞬をとらえた作品です。
感情の正しさ
○楢原もかさんの歌○
差別、嫉妬、浮気など、確かに「ある」が「正しくない」とされる感情は多いです。それらにすこしでも「正しさ」はあるのでしょうか。
たとえば自分の好きな人が誰かに恋をしていて、自分がその誰かに嫉妬するのは、自分が好きな人と結ばれたいと願う感情ですから、その意味では正当でしょう。一方で誰かの恋路を邪魔することにもなるので、その意味では不当です。
こうした感情は誰にでもあり、否定したくはありません。しかし肯定するのも難しい。悩ましいです。どう向き合っていけばいいのでしょうか。そんな悩みをこの歌の主体は抱えています。もっと個人的な悩みかもしれません。
筍は焼くときれいな焼き目が付きます。少しずつ深まっていく色、その時間は物事を考えるにはぴったりです。食べるころには答えが出ているかもしれませんね。
桜
桜と日本人がどのように関わってきたかについては、また別の長いnoteを書く必要がありそうです。ここではいただいた歌に触れながら考えてみたいと思います。
○外村ぽこさんの歌○
桜は満開になると、すこしの間だけ、ずっと咲いていてずっと散っているように見えるときがあります。桜が儚いものとされながらも永遠に咲くかのように捉えられるのはそのためです。
「さくら味」は一年中続きません。それは桜がすぐに枯れることを分かっているからです。それでも「一年中さくら味してほしい」という願いが生まれてきます。幻想としての永遠。それは命のようです。いや、愛でしょうか。
「永遠の愛」が、やがて、あるいはすぐに失われることは誰もが分かっています。それでも今、この瞬間だけは「永遠の愛」と言いたいのです。それをのろけとして一蹴することは難しいでしょう。桜と愛の特徴を鮮やかに結びつけた歌です。
この歌は次の連作中の一首となっています。
○新棚のいさんの歌○
春は眠たい季節です。
春眠の道連れにする猫が居ない/時田久子「現代俳句データベース」
そんな春のイメージが、ここでは「就活のマナー講座」の心情に移されています。
この歌でも「桜」が大きな役割を果たしています。「就活」という人生の転機。それでいて眠たく、嫌になってしまうイベント。主体はその生命力を吸い上げるように「桜ライチのジュース」を飲んでいます。眠くても聞かなければいけないことは分かっているのでしょう。嫌だけど向き合わなければいけません。主体の感情が細やかに伝わってきます。
○シュポパビッチなっこさんの歌○
【訂正と謝罪】
元々、この歌の評は次のように書きはじめていました。
伝統的に桜と結びつけられてきたのは吉野山でした。吉野川は主に流れの激しさが恋になぞらえられます。吉野川と桜はつながらないだろうと考えてこの評を書いていました。
しかし今回調べてみると、吉野川と桜は、さらに筏はしばしばセットでうたわれていたことがわかりました。訂正と謝罪の意を込め、以下にやや詳しく触れたいと思います。
たとえば竹久夢二の「砂がき」には次の歌謡が載っています。
吉野川には櫻をながむ龍田川には紅葉をながむ橋の上より文とりおとし水に二人の名ぞながむ。
決定的なのは丹沢巧「花筏文様の形成過程」という論文です。ここには「吉野川と桜」を組み合わせて詠んだ歌が西行の時代から紹介されています。さらには、江戸時代には吉野川で筏流しが行われていたといいます。
よしの山ふもとのたきにながす花や峰に積もりし雪のした水/西行『山家集』
寄筏花
山づとに手折りてのする花筏あらくおろすな春の川風/正徹『正徹千首』
丹沢氏は正徹の歌を「見立ての「花筏」」が歌に登場する以前の歌だといいます。つまり、実際に吉野川を流れている筏に桜が降りかかっている景を詠んだ歌ということになります。
また、吉野川筏歌という民謡が存在します。「筏乗りさん、袂が濡れるよ」という歌詞が知られているようですが、ここでは他のものを引用します。
清き流れの吉野の川に 下す筏は日本一
わしがお郷で見せたいものは 南朝史跡に吉野杉
吉野川にと筏を流しゃ 竿をさす手に花が散る
恋し駒鳥山上の山で 遠い都の主を待つ
わしのスウチヤン吉野の川で荒瀬のり切る筏のり
一度見に来い吉野の奥へ 一目千里の杉林
清き流れに筏を下しゃ 谷の鶯つれて鳴く
(後略)
この歌が載っている西川林之助『紀和民謡釈』によると、筏流しは吉野山の木材を運び出すため「厳寒の頃」に行われたといいます。しかし、民謡の「竿をさす手に花が散る」という部分をみると、桜が咲く時期まで行われていたのかもしれません(あるいは枯木に桜を幻視したのでしょうか)。川の流れが緩やかになってくると、筏乗りがこの歌を歌ったと書かれています。
西川氏の本から川上村の筏流しの様子がわかる一節を引用しておきます。
※筏流しの方法は次のサイトに詳しいです。
「吉野林業全書」に学ぶ (92) 支流での筏流しの方法①
「吉野林業全書」に学ぶ (93) 支流での筏流しの方法②
なお、上田利夫『吉野川の歩み』によると、海上交通から陸上交通へ移ったことで、1935年を境に吉野川の筏流しや帆船航行は見られなくなったようです(本書7ページに筏流しの画像があります)。
このように、吉野川と桜・筏が結びつかないというのは完全にこちらの知識不足でした。ここに訂正し心から謝罪いたします。
上の内容を踏まえながら評を書き直しました。
評
桜えび散り散りになったかき揚げは吉野の川の花筏/シュポパビッチなっこ
主体は「桜えび」を「かき揚げ」にしながら、「吉野の川と花筏」を思い出しています。「花筏」は多く川に流れる桜の比喩として使われますが、実際に吉野川で筏流しが行われていることを考えると、比喩としての花筏ではない可能性が生まれてきます。油に浮かんだ「桜えび」の「かき揚げ」がだんだんと筏に見えてくるようです。
主体はテレビなどで見た吉野川を流れる無数の桜とともに、かつてその川を流れていた筏を思い浮かべたのかもしれません。主体の故郷が吉野で、祖先が筏乗りだったということも考えられます。まだ行くことができていないお花見を期待したという読みもできますが、ここでは「かき揚げ」に古き良き筏流しの光景を見たのではないでしょうか。「散り散りになったかき揚げ」は「もう失われた景色」を表します。日常と理想、現実と過去の対比が鮮やかで、上の句から下の句の転換も見事です。改めて、より一層すばらしい歌だと感じました。
場所、時代は違いますが、筏流しの動画を見つけました。
甘やかされていく
○古川柊さんの歌○
「新たまねぎ」は柔らかくて甘みが強く、丸ごと蒸し焼きにして食べることができます。そのように主体は甘やかされているのでしょうか、何か失敗をしても「簡単に許」されてしまいます。
蒸されている新たまねぎが主体の心のように思えてきます。主体はこのままではぱくっと食べられてしまうのかもしれません。ぐつぐつと煮えていく新たまねぎが思慮を誘う歌です。
等身大の私
○澪那本気子さんの歌○
平明な歌ですが、単純ではなさそうです。それぞれ「スナック」「スナップ」、「苺」の繰り返しがリズムを生んでいます。また、無駄な言葉もありません。二首目は初句に「悔しいな」が倒置されており、読み終わってからもう一度冒頭に帰っていくような構造を持っています。
それぞれの歌が主体の感情や生活、年齢など、様々な情報を喚起します。このような歌が数十首、数百首と並んだとき、読者の前には一人の人間の姿がありありと浮かぶでしょう。すでに自分の文体が確立しています。もっとまとまった形で読みたいと思わせる作品でした。
ぽっぷこーん!
○金森人浩さんの歌○
金森さんは投稿された三首の歌で、それぞれ「姿煮」「寿司村マイク」「ぽっぷこーんじぇる」の筆名にかかわる食材に触れています。くっ、そんなの評を書くしかない!
ポップコーンが弾ける音は「ポップコーン!」というオノマトペの感じがします。その「ポップコーン!」という勢いがポップコーンをポップコーンにして、主体を悩みを「ポップコーン!」してくれるわけです。
しかし、主体はどこにいるのでしょうか。映画館だとすると、その「ポップコーン!」したポップコーンを食べながら、これから映画を見て号泣し、さらに「涙の理由」を忘れるのでしょう。あるいは何か嫌なことがあって映画を見にいったが、ポップコーンの「ポップコーン!」ですでに悩みの大部分が「ポップコーン!」した、という歌かもしれません。ぽっぷこーん!
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