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みんな食べて生きてきた――『昭和萬葉集』に読む「食」の歌・備忘録

はじめに

昭和の短歌を集成した一大アンソロジーに『昭和万葉集』がある。全20巻、およそ8万首が収められているという。

そんな『昭和万葉集』から、たべもの短歌だけを抜き出した本があれば、たべもの短歌から昭和という時代が見えてくるのに……あった。小林勝『『昭和萬葉集』に読む「食」の歌』(2018)がそれだ。

見つけたのはけっこう前だが、ずっと読むことができなかった。なぜならこの本は私家版(自費出版された本)で、どこにも売っていないためだ。

もちろん一般の図書館にも置いていない。ただ、国立国会図書館(東京館)にはある。先日、とある事情ポップコーン星 つくりかたにより国会図書館に行く機会があり、本書を手に取ることができた。

全246p、ポケットには入らないがコンパクトな本だ。目次は50項目ほど、トピックごとに分かれている。文字が大きいためすぐに通読できるだろう。

著者の小林勝氏は1938年生まれ。既刊に歌集『分水嶺』『アンダンテ』、歌論『千代國一の風光』がある。

(追記)『短歌現代』に著者の短歌を見つけた。いくつか引用する。

  寒明け(1998/4)
高架橋の上にオリオン煌めきて老いへの境涯鼓舞していたり

  新千年紀(2000/3)
わが終の日まで追つぐ夢持てば辰とう仮想の生き物親し
地方自治のもてる重みをほぼ解し区長の任は今日終りたり

さて、序文には食と生活の関わりが説かれている。

衣食住というが、なかでも食は生命の維持に不可欠であり、食うことが私たちの日常生活そのものといってもいいだろう。
食を通して昭和という私の生きた時代を探りたい、そんな思いから『昭和萬葉集』を改めて読み返し、感じたところを所属する歌誌「月虹」に連載した雑文をまとめた小冊子である。
確たる全体構想もなく、軽い気持ちで始めた連載であったが、食を通して昭和に迫るという意図は、あながち検討外れのものではなかったと思う。

太字筆者

以下はその備忘録であり、一部補ったところがある。なお、後半に平成短歌の考察とぽっぷこーんじぇる自身の歌の紹介を付し、食の短歌史の瞥見を試みた。


本文

「黒き糞」

ここでは一九三四年の東北地方の冷害を詠んだ歌を紹介する。章題は「たべもの、たんか、はる」でも紹介した結城哀草果の歌だ。

木の実と草根を食くらひ飯食はぬ人らは黒き糞たれにけり/結城哀草果
貧ゆゑに空弁当の子もありき頭痛よそほひ昼食べざりき/佐々木大治

「食は安らぎ―二・二六事件」

二・二六事件に関わった斎藤瀏とその娘の斎藤史が歌人である……というのは有名な話だが、ここでは二・二六事件の叛乱兵の歌を紹介する。

叛乱兵士いま幸楽に牛肉を食ひをると聞けば何か安けし/丸野不二男
ありの実の黄いろき皮を取りもせでなみだにぬれて我はほほばる/安田優

前者の「幸楽」は料亭、叛乱兵の本部の一つだった。
後者は叛乱罪で銃殺された青年将校の辞世の歌。死ぬ前に「ありの実」(梨の実の忌み詞)を食べることはできたが、その皮を剥くことはできない。

「滋養のための食」

ここでは結核患者の食の歌を紹介する。

ものの味忘やはつる冬の海の牡蠣も咽喉にしみて食ひたり/郁沢春樹
生命一つ生きん願にこの魚の生肝食ぶる日のつづきたり/森田君子

著者は「この魚」を鯉とする。

「女性の田作り」

ここでは、稲作に関わる女性を詠んだ男性の歌を紹介する。

いちどきに植女うえめが笑ふたかき声水田わたりてここまできこゆ/今西喜代治

「運命を変えた食」

決定的な場面の食を詠んだ歌を紹介する。

主計科の心づくしの赤飯を食ひ終りたり午後一時十五分/佐藤完一

作者は真珠湾攻撃の主力である第一航空艦隊の乗組員。『昭和万葉集 巻六』の脚注には「旗艦赤城の第一次攻撃隊員整列は八日零時四十分(東京時間)。赤飯、尾頭つきの魚、勝栗の朝食後一時三十分、「発艦はじめ」の指令が発せられた。」とある。

また、国家総動員法の下での歌。

いまさらに言ふ事なしと思へども今宵のみ厨に長き妻かも/近藤芳美
夫とのる最後とならん夜の汽車に温かき牛乳わけてのみたり/神戸照子

また、出征を見送る歌。

明日征くとたづね来りし教へ子と乏しき栗を分かちて食すも/矢部茂太

「銃後の食」

食ふ草よ草よと誰も皆花見にと来て草を摘むなり/山田尚子

「疎開地での食」

海蟹をほぐして食へり妻子らとあられもなしに食ひ散らけたり/前川佐美雄
ゆふがれひ食ひをはりたる一時を灰となりゆくおき目守りつ/斎藤茂吉

前者の疎開先は鳥取県、後者は山形県。後者の「燠」は炭火のこと。ともにどこか荒んだ、あるいは物思いに沈む姿が見えてくる。

山の上に吾に十坪の新墾あり蕪まきて食はむ饑ゑ死ぬる前に/土屋文明

疎開先は群馬県。

「白兵戦下の食」

骨に沁む霜夜を辛き酒嘗めて語りしものも半ば死にたり/三野刀夫
谷川に口つけ飲めばあごひげにこびりつきたる血のとけて臭ふ/石毛源
敵兵の屍の浮かぶクリークに朝を早く米とぐ吾は/浜田初広

クリークとは、中国の平野部に見られる灌漑や交通のための小川。死のリアリティが食そのものの生々しさによって強く引き立てられている。

「末期の水」

アー水ヲクレマセンカア 咽 ノド 痛イイ 夜ガ明ケンノー/豊田清史

「八月十五日の食」

みんなみの山の奥蟹取り果ててかひなく死にし友やいくたり/香山滋

「ラーゲリの歌」

ラーゲリは収容所のこと。これはシベリア抑留者の歌。

大切な黒パン食ひし鼠二匹捉へて四十人のスープとなせり/矢沢啓作

「待ち焦がれた食」

歌人香川進は歩兵少尉として最前線で戦った。そして敗戦を迎え、帰宅する。

無花果の葉かげに立てるわが妻はうつとり空を見てゐるらしき

これは歌集『氷原』に所収の歌だが、『昭和万葉集 巻七』には次の歌が収められている。

生きてゐてああよかつたと朝露にしつとり濡れし無花果を食む

「明日の食」

戦後、飢餓に苦しむ歌を紹介する。

子が冬の貧しかるかも道の辺に凍れる雪をかき齧りつつ/木俣修

「飢餓食? 珍味?」

同上。

飲食おんじきやすからぬ日の久しくてたぬきの肉も今宵こよひ食ふべし/上原弘毅

「匙」

復員者の歌。

俘虜吾の土産はこれと掴み出す使い馴らせし食匙一つ/小西茂枝子

「秋刀魚の歌」

七百人みんな秋刀魚さんまを食べてゐる大食堂にあはれさんまはうまき/倉地与年子

これまでの歌にくらべて明るい。

「昭和二十年代末、食のあれこれ」

終戦直後からやや時を経て、飢えではなく食のありがたさを詠む歌が増えてきた。

心ゆくまでライスカレーを食ひしかば満ち足りて今宵早寝をぞする/石黒清介
コロッケ二つ買ひ来て冷えし昼飯を倉庫の前の日だまりに食ふ/葦村芳春

「七輪など」

調理用品などを詠んだ歌を紹介する。

ゆるくゆるく葛湯くずゆを茶碗に溶いている採用試験駄目かも知れぬ/大塚千玖
鍋の蓋一つ作りてたづさへぬ貧しき君の家を訪はむと/石黒清介
湯豆腐の夕餉食はすと病室へはるばる七輪を母運び来る/五味淵ます子

「子を育めば」

珍らしく弁当を持ち来し教え子のはにかみながら食事している/緑川昭雄

「もりあがりもりあがるビールの泡」

昭和三十年、復興も進み始めたころ。

ネオンサインのビールの泡はもりあがりもりあがりビルの上にながれつ 山中久一


あとがき

さて、著者はあとがきで『平成万葉集』から食の歌を引き、若干の比較を試みている。

海に戦死の兄を憂ふる母なりき永き歳月魚口にせず/有山すみ
山ほどのサプリメントが並ぶ中ためらわず手に取るポパイのほうれん草/永井悦子

後者の歌について、著者は「このような軽さに私はなじめなかったのかもしれない」と述べている。

なるほど、『平成万葉集』の歌はちょっと軽いかもしれない。でも、現代短歌はもっと色々あるはずだ。

21世紀の食の歌たち

ここで『ねむらない樹 vol.1』「新世代がいま届けたい現代短歌100」
書肆侃侃房、2018)を使いたい。伊舎堂仁・大森静佳・小島なお・寺井龍哉氏の4名が2000~2018年の歌から100首を選んだものだ。
21世紀のいまにかがやく短歌たち、ということで、ここから食の歌を読んでみよう。余談だが、筆者はこの100首が面白いことに現代短歌そのものへの希望を重ねている。

大足の息子が部屋を横切りてコーラ飲まねば勉強できぬ/前田康子

小島なおは「大人と子供の狭間にある息子」を詠んだ歌だという。表現が軽いといえば軽いのだが、「大足」という表現や「コーラ飲まねば勉強できぬ」という断言に、大人らしさと子供らしさを重ね合わせる技巧がある。親としては「別にコーラなくても勉強できるよね。というか、いままで勉強してなかったの?」という気持ちだろう。

缶コーヒー買って飲むってことだってひとがするのを見て覚えたの/山階基

寺井龍哉はのちの座談会で、この歌について「本能の欲求に従ってやっていることも、その手順は本当は全部教わったり誰かがしてるのを見たはず。」と触れている。寺井氏のように「缶コーヒー」を〈食〉の象徴としてではなく、たとえば〈大人らしさ〉の象徴としてみることもできそうだ。つまり、大人らしさ(上の句)と子供らしさ(下の句)の接続、ということだ。でも、先の読みのほうが深みがある。

大根を探しにゆけば大根は夜の電柱に立てかけてあり/小島なお

「大根」自体、ちょっとおもしろい食材だ。「大根引き大根で道を教えけり」(与謝蕪村)はそういう句。それにちょっと人っぽい。「大根は切断されて売られおり上78円、下68円」(鳥居)はそういう歌。この歌の「大根」はなんだか主体の友達のようだ。

はちみつで育った毛から花々のにおい たたかえないよ、たましい/加子

前半の解釈にこまるが、それ以上に韻律がいい。一応考えてみると、「はちみつで育った」のが蜂でも人間でもかまわないのだろう。どちらにせよ「たましい」というものは「花々のにおい」がするのだから、「たたかえないよ」、という歌だと解釈した。たたかいには戦争も含まれているだろう。

ひとりでも生きられるから泣きそうだ 腐り始めの米は酸っぱい/坂井ユリ

「腐り始めの米」を自己責任で食べてしまうことが「ひとりでも生きられる」証拠なのだろう。たとえば大学生、一人暮らしをはじめたばかりで、家事をひとりで済ませなければならない主体の歌と読んだ。もしかして、主体は自分のことを「腐り始め」と思っていやしないだろうか。

みんな好きなら私の好きはいらんやろかき氷でつくるみずたまり/北村早紀

寺井龍哉はこの歌を効率的な愛の歌として読む。なるほど、「みんな好き」でない人を好きになりたい独占欲、それが効率的な愛ということだ。ここでは食べものであるはずの「かき氷」が「みずたまり」になっているのが面白い。愛情だって溶けたらこんなものだ。

これらの歌は、あえて言えば時代性が希薄だ。そこに表現されているのは個人の一景に過ぎない。むしろ個の世界が、時代性・社会性などの中間項を無視して、本能や愛や悲しみといった普遍性に直結しようとしている。これはサブカルチャーの領域で〈セカイ系〉と呼ばれるジャンルの特徴に近い。その意味でゼロ年代の傾向を帯びており、その意味では時代性を持っているといえるだろう。

ただし、ここで紹介した歌は少なからず優れている。『平成万葉集』の歌として紹介された「ポパイのほうれん草」よりも強く、その食材が詠み込まれる必然性がある。「缶コーヒー」の俗っぽさ、「大根」の滑稽み、「はちみつ」の甘さ、「米」の生活感はほかの言葉に代えられないし、「かき氷」でなければ水たまりにならない。そこには昭和の短歌とは違ったかたちで、生の固有性が詠まれている。

では、このままでいいのだろうか。

ぽっぷこーんじぇるの歌について

いちおう、なんとか、ほどほどに現代の歌人である筆者ぽっぷこーんじぇるの歌も、最後にちょっとだけ触れておきたい。じぶんでも意外だったが、なぜか食の歌が多いのだ(なぜかって、名前が食べものだからか)。

あれ いま皿から流れているものは 君でも食べものでもなくて

筋肉短歌会「皿洗い短歌」に出した歌。けっこうおもしろい!と思ったのだが、けっこうおもしろい!という声はじぶんからしか聞こえない。

ぼくたちも寝るときは寿司 神様にやさしく握られてから 回る

「回る」は自転・公転を詠んだつもりだけれど、これって伝わるんだろうか。でも、けっこう気に入っている歌だ。

ばけもののわたしは空を食べだした 泣きながら、ってほんとにばけものみたいだ

明らかに前川佐美雄の影響を受けている。短歌のなかで「ばけもの」になりきることは難しいし、そもそもそんなになりたくない。この歌では「食べる」という行為のリアリティを揺さぶったつもりでいる。

水筒を拾ってくれた。もう顔も覚えてないけどぬるいなあこれ

水筒は落とすとうるさい。それは日常のなかでは劇的な場面と言ってもいいのに、日常のなかだから相手の顔なんてすぐに忘れてしまう。それはやっぱり「ぬるい」ことだ。



うーん、たしかに、秀歌ではないかなあ……。

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