見出し画像

関東大震災の短歌・補遺

写真:坪井道一『関東大震災記念写真帖 : 大正一二年九月一日 深川区』
「清住遊園内のバラツク部落」とキャプションがある。

はじめに

短歌史の本を手にとり関東大震災と短歌の項を読むと、おおむね同じ歌人の震災詠が挙げられている。「関東大震災と短歌」も「釈迢空の関東大震災詠」もこうした本の記述に従っていた。

国会図書館デジタルコレクションを漁っていると短歌研究会編『新選一万歌集』を見つけた。初版は1925年、1927年に出版社とタイトルを変えた(『新選壱万歌集』になっている)新版が発行されている。近代短歌1万首をジャンル別に分類した本らしい。短歌でいうところの類題和歌集、俳句でいうところの歳時記にあたる。大項目は以下の通り。





無季
恋愛
地震

たとえば「春」の中項目には「時令、天象、地儀、動物、植物、人事及雑」があり、「時令」の小項目には「春来る、初春、春の日、春の日影、朝」などがある。

ここで注目するのは最後の「地震」だ。これは関東大震災を指しており、おおよそ170首が収録されている。同じ短歌研究会編に『近代一万歌集』(1935)という類書があるが、こちらは地震詠を「恋及び雑」にまとめらており、歌数も6首しかない。関東大震災を受けて震災詠が一挙に出現し、それを記録する意識が生まれたのだろう。

短歌研究会についても付言しておきたい。『和歌文学大辞典』(1962)によると、金子薫園が1905年に創立した結社と書かれている。同結社をもとにして結社誌『光』(1918-1942)が創刊されたらしい。短歌研究会編の書籍を検索すると、『新選一万歌集』『近代一万歌集』のほか、『短歌作法用語事典』、『短歌の作り方』、デジタルコレクションで閲覧不可の『昭和一万歌集』がある。特色ある活動をしているように思うが、あまり読まれなかったのかもしれない。

以下、『新選一万歌集』の関東大震災詠をもとに、新たに発見した歌をまとめていくことにする。これを関東大震災詠の補遺とするとともに、短歌史の空白をすこしでも埋めることができればと思う。


石榑千亦の震災詠

石榑千亦いしくれちまたの震災詠は『現代短歌全集』第十四巻に収められている。石榑は同年の春には妻を失っており、震災では家を焼失した。

   大震劫火
我が家を焼く火におはれのがれゆくゆく手にもあかく焔あがれり
子らをば草の上に臥させ八方にとどろき燃ゆる火中にたてり
底冷ゆる草の上なれ親のそばにありと思へかすやすやと寝る

   妻よ
妻よ汝がすみしこの焼あとに家作りせし吾をよろこべ
硝子戸の外面そともあかるきよその灯にしぐるる雨の寒うすけて見ゆ
かかる時汝しあらばと又してもおもひつつもとな頭つかるる
思ひなやむ今日この心汝しあらば瞬くもまたず吾を救ふべし
汝しあらば汝しあらばといふ事のいひ古りたれど日に新しき

 ※もとな……わけもなく。不意に。

   焼原
焼土ふみ焼瓦ふみけふもまた勤よりかへる路は暮れたり
打よりてバナナを食めば笑みながら妻も来るかとふと思ひけり

しみじみとしたいい歌だと思う。【大震劫火】の「底冷ゆる草の上なれ親のそばにありと思へかすやすやと寝る」については、「家をやかれ、着物をやかれ、その他一切をうしなつてしまつて、今は草の上にねている。それにもかかわらず子らは親のそばにいるという安心感に安らかにねむつてゐるのである」という感想がある。【妻よ】は震災詠のなかでも出色の出来ではないだろうか。


岡本かの子の震災詠

岡本かの子の震災詠は『深見草』に大部のものがあるが、選抜すべき歌は少ないように感じられた。

   大震 ――鎌倉にて遭難――
わが命ありやなしさへ分ぬ間に助け呼ぶ人のこゑ耳をうつ
立ち上りしばし眺むる眼界まなかひは立樹のほかに何物もなし
人も家も砕かれ果てつ鎌倉やま松のみどりぞただに深けれ

  玉造温泉にて
われのみの命を玉の湯に浮けていたはることのさびしくなりけり


並樹秋人の震災詠

並樹秋人の震災詠は『穂明 並樹秋人第一歌集』に収められている。

   大地は震ふ
屋外にいづるすなはちつまづきて地面にみたび倒れたり我児と
ありたけの声はりあげて井戸端にあはてふためく妻はげましつ
もろともにのがれていづる門の外にゐるとおもひし我が児は見えず
胸を打つ不安を感じひた探す枝垂れ大地の揺れかへす庭に
いづくにか我児の泣く声そら耳ときき疑ひつ震ふ大地に
杉の木の根もとにふたり泣きわめきまさしくゐたり幼きふたりは
死ぬならばもろとも死なむ決心に両わきの子を抱きてはしる
揺り返す地鳴りの音のやみたれば煙草のみたくなりにけるかも
おめおめと命おとしてなるものか鶏さへ猫さへ眼をかがやかす
おもひきめ葡萄酒とりに帰りたるわが家はいたく傾きにけり

   震災の秋
ありたけの銭もて買ひしたべものに黴いちじるし戸棚のなかに
くろき飯いやといふ子を叱りつつわれも食べなづむ妻もしかるか

「大地は震ふ」前半の歌は、物語はよく見えるが一首あたりの完成度は低いと思う。一方で、後半三首と「震災の秋」は震災詠らしからぬユーモアが感じられて面白い。このような歌はなかったと思う。


宇津野研の震災詠

宇津野研の震災詠は『木群』にまとめられている。

   殃禍の港
大地震おおなゐにまどひさわげる鳥のむれ空飛びかねてただに羽搏はばた
ゆりかへしやまぬ夜ふけぬわが妻は月見草の花に目をとめてをり
焼跡を見まじきものにこもりゐつえくる蠅を室にころすも

   バラツク街を過ぎて
  大正十二年十二月某日の午後、銀座より、本郷の家にかへることあり。震災後百余日を経たれど、このあたりを過ぐるは、予にとりて初めてのことなり。
煉瓦壁焼けのこる家のまへ来れば戸はあらぬ窓ゆ冬空の見ゆ

「焼跡を見まじきものにこもりゐつ殖えくる蠅を室にころすも」にはどきりとさせられる。焼跡のそばで蠅を「ころす」主体の姿が見えてくるとき、それを語る語り手の批判的な目線が見えてくるからだろう。


楠田敏郎の震災詠

楠田敏郎の震災詠は『流離』にまとめられている。

   異変傷心抄
  東京大震災のみぎり、われ丹後に帰りてあり、新聞の号外を見て即ちおどろき、ただきに入京す。その歌数首。
つぎつぎに張り出ださるる号外を眼には読みたりこれはまことか
 安否ただに聞きたし
おそらくは生きてあらざらむ電報の宛名かきつつ心もとなさ
東京には届かざらむとおもへかもこの電報はうたざるべからず
  遠く居りて我は無事なり
此処に居てましろき飯をいただけるもつたいなさを忘れざるべし
此処にして手足を延ばし寝ることのもつたいなさを忘れざるべし
  東京に向ふ
あかつきのこの停車場に山茶花の咲くは見れどもなぐさむべしや
 東京に入る
いまはとて人のちからも虚しけれ焼けてあとなき此処が東京
焼跡の春陽堂を暮れあてて
立ちたるまま梨をかじれる人とわれと物は云はねどうれしくて泣かゆ

東京の外で震災を知った人の歌は数少ない。note「関東大震災と短歌」の最後に中村憲吉の大阪での震災体験を載せたが、楠田の歌はこれとも趣向が異なる。歌風もやや特色があるように感じられる。


松村英一の震災詠

松村英一の震災詠は『やますげ』『荒布』に収められている。ここでは『松村英一全歌集』上巻を参照した。

   家に帰る
  大正十二年九月一日、東都に大震ふるひたる時、吾は故郷名古屋にありき。二日朝の号外に驚きて取るもの取りあへす帰京す。
妻や子や如何いかにあらむと夜の道をたどるに急かるるわが心かも
されたる門の戸叩き呼びおこすわれの声音はふるへてありけり
妻子らのつつがなかりし声ききてふとしもわれの涙ながれぬ
ひたすらの思ひなるかもつつがなきをさなき子ろを抱きてはなたず
死にてあらばしかばねだにも求めむと命にかけてはるばると来し

『やますげ』

   災後の街
  被服廠跡に来りて
広にはの土にし残る骨のかけら心つつしみ踏まで来にけり
ここにして死にせる人は数を知らず骨散らばる土踏みてをり

『荒布』

素朴な歌ゆえに胸を打つ。「家に帰る」最後の歌など目が開かれる思いだ。


半田良平の震災詠

半田良平の震災詠は『日暮』に収められている。デジタルコレクションでは『半田良平全歌集』を閲覧することができる。

   関東地方大震災
つちの上をたのめ難しとおもふ時人なるわれや人恋ひにけり
  屋外に寝て
直土ひたつちに莚を敷きていねたればちさき地震なゐすら腹に沁むかも
   東京の冬
おり立ちし駅の歩廊に屋根を無み都の空のひろきに驚く
百日ももか経てまだ片附かぬ焼跡の土の色よりさぶしきはなし
焼跡の堆土たいどの上にのぼり立ち神鳶たこあげて居る童は独り
冬の日は暮るるに早しバラツクに灯ともる見れば心重しも

半田良平と松村英一は歌風が似ている。というのも二人とも窪田空穂主宰の短歌誌「国民文学」の同人だったからだ(松村は編集・運営を担当)。松村の歌は重々しい内容でありながら、どこかとぼけたような明るさを感じさせる。


『新選一万歌集』の震災詠

『新選一万歌集』のうち、歌集の(見つけられ)なかった歌人の歌を選出しておく。

をやみなく地震はゆれども草原に何にも知らぬ子供の眠り/森園豊吉
米櫃はすでに尽きゐつ地震なゐの夜を米もとめありく夫もろともに/小西慶子
山と積みし骨の一桝妻となしあと弔ふと持ちてゆくあはれ/渡辺隆之助
  □被服廠跡
こらえかね走らんとするこの道に口あけてねたり子供の仏/吉植庄亮
  □霊岸橋附近
汐満つとひくとただよふしかばねの幾時日をここにただよふものか/渡辺隆之助
軍艦にからくも乗りて兄は来ぬつつがなき母見て泣きにけり/同上


さいごに

まず気づいたのは、note「関東大震災と短歌」では震災直後の歌をまとめたが、この探し方ではすべての震災詠を見つけられないことだ。「関東大震災と短歌」でとりあげた歌人の歌集を紐解けば、彼らの震災後の震災詠(焼土を見つめる歌、復興の歌)を見つけることができるだろう。本来はnoteを書いた責として調べきるべきだろうが、ここで一度打ち止めにしたい。このnoteでも既にとりあげた歌人の歌集には手をつけなかった。

『新選一万歌集』に歌が載せられている歌人のうち、歌集を見つけることができた歌人の歌はほぼすべて選出したが、尾上柴舟『朝ぐもり』のみ割愛した。そもそもの震災詠が少なく、選抜すべき歌を見つけられなかったためだ。

関東大震災の短歌を読むうちに、震災詠を詠まなかった歌人がどれほどいただろうかと考える。noteに割愛した歌は数知れない。当時は今よりも一層、短歌とは生活を記録するものだったのだろう。

よく語られることだが、破壊的な事件、衝撃的な感動は定型を揺るがせることがある。釈迢空が「滑らかな拍子に寄せられない感動」を感じて「四行詩形」に移ったのが典型的だ。たしかに、定型にある種の安定感があるのは否定しがたい。もっともこのような場合、現代では自由律のほか、句跨りや句割れが多用されると思う。

これほどの破壊的な事件が近現代の日本にどれほどあっただろうか。最も重なるのは東京大空襲や沖縄戦、終戦だろう。しかし、戦争には必ず国家・政治が付きまとう。思えば東日本大震災にも原発問題があったために社会詠が多くみられた。嘆くほかない純粋な自然現象が人々の生活に甚大な被害をもたらした例は、もしかすると関東大震災ぐらいかもしれない。そのような意味においても関東大震災の短歌は読む価値がある。百年を機に、彼らの歌がさらに読まれることを切に願っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?