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ボーカロイドと哲学、現代思想——メランコリーの時代あるいは相関主義以降へ向けた一試論

要約

 本論は、「思弁的実在論(speculative realism)」という2000年代後半から興隆している現代哲学の一潮流による相関主義批判及び相関主義の乗り越えという試みに着想を得て、ボーカロイド楽曲において相関主義的世界観及び相関主義的世界における苦悩(特に人生の意味をめぐる苦悩)が描かれていること、そして、その乗り越えがなんとか模索されていること、を論じたものである。内容は大きく三つのパートからなる。「相関主義を歌うボーカロイド」では、ボーカロイド楽曲において相関主義的世界観が象徴的に描かれていることを、ハチの楽曲(「パンダヒーロー」と「ドーナツホール」)及びかいりきベアの楽曲(「ロジカ」)に注目して確認する。「「メランコリーの時代」を歌うボーカロイド」では、世界が相関主義的に解釈される帰結として、現代に生きる我々が「何をしたいわけでもないが、何もしたくないわけでもない」という実存感覚を(半ば必然的に)抱くということをn-bunaの「メリュー」やNeruの「ロストワンの号哭」から明らかにする。最後、「相関主義の乗り越えを歌うボーカロイド」では、相関主義的世界における意味の喪失を乗り越えるためのヒントを、Chinozoの「グッバイ宣言」とピノキオピーの「ぼくらはみんな意味不明」から考える。

序論

 我々は、相関主義(注1)に囚われている。我々は、未だ、イマニュエル・カントが綿密に組み上げた塔から出られずにいる。カントが『純粋理性批判』においてコペルニクス的転回を宣言してから200年以上が経っているにもかかわらずだ。いや、かかわらずという言い方は不正確かもしれない。むしろ、カント以降の哲学は、我々が相対的にしか物事にアクセスできないという方向を強化する方向に進んだからだ。
 哲学史の議論を措いてもなお、相関主義の呪縛が我々の日常生活にまで及んでいることは明らかだ。現代社会において、絶対的な何かなど存在しない。神は死んだ。父親は子供を叱れない。教師は親の言うことを聞いて頭を下げる。善悪や道徳の絶対的な基準もない。先生の言うことをよく聞くことを「善」だと、学校に行かないことを「悪」だと、間違ってもツイッターで発言しようものなら相関主義者からのごうごうたる非難の嵐にさらされる。これらの善悪判断はあくまで個人的な意見でしかなく、「それってあなたの感想ですよね」という話になる。もはや我々は行為の善悪を絶対的に判断する定規を持っていないのである。
 ボーカロイド楽曲の歌詞は、上の意味で相関主義的なフレーズが多く、相関主義的暴力の中に生きているという若者の直感的な感情を見事に掬い上げている。現在、ボーカロイド楽曲は広範な人気を獲得しているが、ボーカロイド楽曲が「我々が相関主義の世界の中にいる」という現代の実存感覚に敏感であることは、楽曲が人気を博する理由の一つになっているように思われる。ポピュリズムの伸長、ポスト・トゥルース、AIとシンギュラリティ——我々の生きる世界は、あまりに不安定で、何が正解で何が不正解なのかもわからない。何でもできるがゆえに、自分にとっての特別を、人生の意味を見つけられずに我々は漂っている。そんな時代だからこそ、ボーカロイドは相関主義の絶望を歌う。
 ボーカロイド楽曲の歌詞は、相関主義的世界に生きていることを深く自覚している若者の心を見事に掬い上げている——本論の出発点は以上の仮説である。以下、まずはボーカロイド楽曲の歌詞を概観し、これらがこの世界を相関主義的なものとして捉えていることを確認する。その後、それらの相関主義的言説がいかなる帰結をもたらすかを、岩内章太郎の「メランコリーの時代」の議論を基に検討し、最後に「グッバイ宣言」と「ぼくらはみんな意味不明」の2曲を手掛かりに、相関主義を乗り越える、あるいは相関主義とは別の可能性の断片を提示したいと思う。

相関主義を歌うボーカロイド

「パンダヒーロー」と正義の両義性

 さて、ボーカロイド楽曲における相関主義を論ずるにあたり、避けては通れないのがハチの楽曲であろう。特に、代表曲の「パンダヒーロー」と「ドーナツホール」は、タイトルからして相関主義的であると言える。すなわち、前者はパンダという白黒2色のイメージを通して、後者はドーナツの穴というそれ自体としては存在しないモチーフを通して、絶対的なものの不在を印象付けている。

お困りならばあいつを呼べ 送電塔が囲むグラウンド
白黒曖昧な正義のヒーロー 左手には金属バット

ハチ「パンダヒーロー」

 パンダヒーローとは何者か。ハチはこれを「白黒曖昧な正義のヒーロー」と歌っているが、この「正義のヒーロー」は広く一般にイメージされるヒーロー像からは逸脱している。「悪」或いは「アウトサイダー」の象徴とも言える金属バットを携えているという描写は、この逸脱を示す象徴的な例だろう(注2)。こうしたパンダヒーローの表象をめぐるある種のチグハグさを顧みると、本楽曲では正義というものが相対的・両義的であることが多分に意識されているといえる。相関主義の世界において、白黒(=善悪)をはっきりつけることは正義とはならない。ある善を絶対化する正義は、別の不正義を生んでしまうかもしれない。そんな世界におけるヒーローは、白黒曖昧であることも仕方がない。「きっと嫌われてんだ我がヒーロー きっと望まれてんだほらヒーロー」という一節は、わがパンダヒーローが、ヒーローと悪者、善と悪といった二元論的価値観に立脚していないことを示している。絶対的な悪も超越的な正義も存在しないこの相関主義の世界で、白黒あいまいなパンダヒーローは欲望的に(注3)正義を構想するのである。

「ドーナツホール」と不在の認識論

 ドーナツホールは、愛する者の喪失を、絶対的なものの不在という相関主義的な形で歌っている。

ドーナツの穴みたいにさ 穴を穴だけ切り取れないように
あなたが本当にあること 決して証明できはしないんだな

ハチ「ドーナツホール」

ドーナツの穴が果たして存在するのかという問題は存在論の本質にかかわる議論であるため深入りはしないが(注4)、ドーナツの穴は実体としては存在しえず、ドーナツの身の部分との相関によってのみ認識論上「存在」するものである。ゆえに、歌詞の通り、ドーナツの穴だけを切り取って、それ自体として存在するということはできない。ハチは、このドーナツの穴の比喩を援用し、「あなた」の存在もまた、それ自体として存在することを証明することはできないという。「あなた」をどう捉えるかによって解釈は変わってくるものの、この表現はまさしくカントの超越論的観念論における物自体の不可知性を示すものといえる。

この胸に空いた穴が今
あなたを確かめるただ一つの証明

ハチ「ドーナツホール」

物自体が不可知である相関主義の世界で、いかにして物自体の喪失感を埋め合わせることができるのか。相関主義の乗り越えについては後述するが、ハチの上の歌詞は、それを見事に詩的な表現で遂行している。ドーナツの穴、心に空いた穴こそが、あなたの存在を証明する唯一の方法だ、というのである。つまり、「ドーナツホール」は、穴=「不在」が「存在」の証明であるという、「不在」を積極的に捉え返す試みであるといえよう。

「ロジカ」と相関主義の帰趨

 相関主義を歌うボカロPは数多いるけれど、かいりきベアほど多くの楽曲において相関主義的世界観を歌っているボカロPはなかなかいないだろう。代表曲ベノムにおける「正解どこなんだ探せよ探せ」、ルマにおける「満点な人生も秀才な解答もございません」、「正解なんて無い無い提唱だ」といったフレーズを概観しただけでも、そのことは明らかだ。
 さて、特にここで取り上げたいのは、ロジカの歌詞である。意図的であるかはさておき、この曲の歌詞は「思弁的哲学が絶対的なものの不在を主張したがゆえに存在不安に陥る」という、近代以降の哲学史を総覧するかのような展開を見せる。

ロジカルに縋って 見透かして 理論化してった現状は 
行き先も 進路みちさえも 泡沫に消えた…?

かいりきベア「ロジカ」

ロジカルに理性の可能性を突き止めようとしたカントの超越論的観念論は、理性の限界を、人間の物自体の認識不可能性を突き止めるに至った。そして、カント以降の哲学は、このカントの主張を推し進め、世界の認識不可能性を強調するに至る。
 だが、物自体の不在、絶対的なものの不在は、我々の存在意義を問い返さずにはいられない。正しさも善も正義も相対的でしかないのであれば、我々は人生にどんな意味を見出せようか。

今も解を求め 解を求め 前だけ目指したって
暗がりに這う弱さ 心 蝕んで
今も存在証明 命の声明 翳す夢 1 1 1
出口さえ無い迷路で 此処に生きる意味を
どうか紐解いて

かいりきベア「ロジカ」

正解を求めて進み続けても、そこに終わりはない。それは「あなたにとっての」或いは「あなたの社会にとっての」正解でしかなく、絶対的なものたりえない。

今も疑問の解明 命の肯定 出来なくて SOS
息継ぎもせず漂って 明日を生きる意味を
今も解を求め 解を求め 涙枯れたとして
心蝕む弱さは 痛み伴って

正答さえ無い迷路で 明日へ向かう意義を
今を駆ける意味を 此処に生きる意味を 教えて欲しくて

かいりきベア「ロジカ」

大文字の理想は喪われ、神は、理性は、歴史は、我々が目指すべき何かは、もはやなにも存在しない。相対主義の世界は、あらゆるものの絶対的価値を取り除き、我々の生すらも相対化し等閑に付す。我々は決して超越的に生きる意味を与えられることはない。意味を喪失した我々は存在不安に陥り、生きる意味を見出せずに「正答さえ無い迷路」で迷い続けることになる。——では、我々は、痛み苦しみながら、ただ、この世を漂い続けるしかないのだろうか。

「メランコリーの時代」を歌うボーカロイド

 かいりきベアのロジカが示すように、相関主義の世界は、生きる意味を喪失した世界である。そんな世の中で生を肯定することはなかなか難しい。何でもある便利な世の中だし、やろうと思えばやれることはたくさんある。だが、モノ・可能性は溢れているが、意味を見出せない。そんな時代を岩内章太郎は、「メランコリーの時代」と表現する。

私たちは無化すべき対象を見つけることができない。私たちには社会への蔑みや嘲りもない。その気になればそれなりに人生を楽しむことができるが、同時に、ある種の生きがたさのようなものも感じている。…(中略)…要は、「何をしたいわけでもないが、何もしたくないわけでもない」という奇妙な欲望をメランコリストは生きているのだ。

岩内章太郎『新しい哲学の教科書——現代実在論入門』p.25

「何をしたいわけでもないが、何もしたくないわけでもない」——これが、メランコリーの時代の要諦である。そして、こうしたメランコリー的感情もまた、ボーカロイドによってしばしば歌われている。n-bunaのメリューは、メランコリー的感情を緊張感のある掠れた初音ミクの声でもって表現した一曲だ。

「メリュー」と閉塞のメランコリー

だから愛さえないこんな世界の色に僕の唄を混ぜて
もうどうかしたいと思うくせに僕はどうもしないままで

n-buna「メリュー」

何かしたいと思ってはいるものの、欲望が活性化しない——上の一節は、メランコリーの時代に生きる我々の感情を見事に捉えている。

悲しくもないし苦しくもないのに
辛いと思うだけ 辛いと思うだけ

n-buna「メリュー」

ここで、悲しさや苦しさは辛さとシームレスに接続しない。何か具体的な悲しみの感情や苦しい状況があるわけではないが、ただ、辛さを感じてしまう。ただそれは、端的に辛いと思う「だけ」で、情動が動いていることの理由は言葉にし難い。何に対して感情が動くのか、どうして辛いのか、はっきりと意味づけられない。「もう声も出ないそれは 僕じゃどうしようもなかったのだ」——身体は感応せず、欲望は活性化しない。目指すべき理想も、抵抗すべき悪も、目掛けるべき対象の一切を失った「静的平衡」の世界。我々はどこへ向けて一歩を踏み出すべきか分からずにただ立ち竦む。メリューは、メランコリーの時代に生きるそんな私たちの閉塞的な生きがたさを映し出している。

「ロストワンの号哭」と苦悩のメランコリー

 Neruのロストワンの号哭もまた、メリューとは別の形で、意味の喪失と欲望の不活性化の中でもがく我々を表現している。

過不足無い 不自由無い 最近に 生きていて
でもどうして 僕達は 時々に いや毎日
悲しいって言うんだ 淋しいって言うんだ

Neru「ロストワンの号哭」

明日の生活が脅かされているわけでも、衣食住に困っているわけでもない。我々はその気になればそれなりに人生を楽しむことができるし、ある程度好きなことをすることもできる。にもかかわらず、悲しさや淋しさに苛まれる。

正しいのがどれか悩んでいりゃ どれも不正解というオチでした

Neru「ロストワンの号哭」

超越的な審級なきこの世界は、無数の小さな物語がそれぞれの正当性を求めて他の物語を排撃する絶対的正解なき世界である(注5)。その中で正解を求め悩んでも、結局手に入るのは小さな共同体の内部でしか通用しない「正しさらしさ」でしかない。物質的豊かさこそ保障されているものの、我々は絶対的正解という超越的なもの(=物自体)へのアクセスを断念させられている。しかるに、我々は意味に辿り着けずに彷徨い、悲しみ、淋しむ。

僕達このまんまでいいんですか おいどうすんだよ もうどうだっていいや
どなたに伺えばいいんですか おいどうすんだよ もうどうだっていいや

Neru「ロストワンの号哭」

ここだけ見るとただの短気な感情の発露でしかない歌詞も、ここまで追ってきたような意味の喪失という過程を省みると、また違ったニュアンスとなる。我々は決して最初から全てを諦めているわけではない。このままではいけない、何かをしなければならないという思いを抱えながら、それでも、人生に意味を見出せず、「もうどうだっていいや」と、遂に自暴自棄に陥るのである。

相関主義の乗り越えを歌うボーカロイド

 では、我々は意味を失った世の中でただ彷徨うばかりなのだろうか。哲学において2010年前後に現れた「思弁的実在論」という潮流は、相関主義を克服しようとする思想的営為であり、彼らはなんとか「意味」を見出すべく、絶対的なものを追求している。例えば、カンタン・メイヤスーは偶然性の絶対性を打ち立てることで、また、グレアム・ハーマンは道具性の背後にあるオブジェクトを構想することによって、絶対的なものを取り戻し、相関主義の打破=意味なき世界の周縁化を試みている。
 そして、ボーカロイドもまた、意味を失った相関主義的世界においてどう生きるのかを苦闘しながらに歌っている。以下、Chinozo「グッバイ宣言」とピノキオピー「ぼくらはみんな意味不明」の2曲を取り上げ、これらにおける「相関主義の乗り越え」を論じていく。

「グッバイ宣言」と絶対的正義としての引きこもり

 ——生存戦略として、引きこもりを礼賛する

 Chinozoの「グッバイ宣言」は、「正論も常識も意味を持たない都会にサヨウナラ!」と楽曲タイトル通りに相関主義の世界に背を向け、世界から逃避して背を向けること=引きこもることを絶対的な正義へと転化させる。

引きこもり 絶対ジャスティス 俺の私だけの 折の中で
聴き殺してランデブー 俺の私の音が キミに染まるまで

Chinozo「グッバイ宣言」

引きこもることを積極的に礼賛する。もはやそこにエヴァンゲリオン的な後ろめたさはない。
 世界から背を向けて逃避することは、かつて宇野常寛が『ゼロ年代の想像力』で痛烈に批判した引きこもりの心理主義的モードに他ならない(注6)。宇野常寛は生きる意味・価値を喪失した世界において、90年代の「古い想像力」は内面に引きこもって「~である」こと=自己像の承認を求めたと論じ、こうした「古い想像力」を代表する作品として新世紀エヴァンゲリオンを位置づけた。何かを選択し社会にコミットすれば必ず誰かを傷つけてしまうのであれば、何も選択せずに引きこもるべきだ——自己像を無条件に承認してくれる存在を求め社会に背を向ける碇シンジの心性は、90年代の想像力として多くの人々の共感を集めた。
 だが、「グッバイ宣言」にあるのはもはやエヴァンゲリオンと等値されるような心理主義的、碇シンジ的引きこもりではない。ここにあるのは積極的な選択、生存戦略としての、絶対的な正義としての引きこもりである。あるがままの自己像の承認を求めるわけでも、社会を傷つけてしまうことを恐れるわけでもなく、ただ、「絶対的正義」として引きこもりを礼賛する。私が何をしようが世界は変わらず廻り続けるし(「グルグルグルグルと 世界は変わらず廻っていた」)、社会は正解や意味を喪失して腐っている。そうした世界/社会に生まれ落ちてしまった我々の生存戦略として、あえて引きこもることを選び取る。それは客観的・普遍的に有効な絶対的正義にはなり得ないが、主観的に絶対的な正義として我々の生を擁護し鼓舞する。
 しかし、こうした「戦略としての引きこもり」の礼賛は、いとも簡単に文脈を離れ、単純な「引きこもり=至高」の論理へと転落しうる。生存戦略として引きこもりをあえて選び取るという「あえて」の論理は忘れ去られ、要するに引きこもって社会から逃避するのが一番なのだという一種の開き直りを生んでしまう。実際、外見的には戦略的な引きこもりもただの怠慢な引きこもりも区別は不可能であり、具体的な日常空間において他者に「戦略的な引きこもり」を理解させることは甚だ困難に近い。その意味で、「グッバイ宣言」における「戦略的な引きこもり」は客観的な論理として成立しえない。だが、他方、主観的な論理として、意味を喪失した社会で生きてゆくための一つの戦略として、引きこもり=絶対的な正義という回路を持っておくことは我々の人生にとってのTipsとなるのではないだろうか。

——「絶対が不可能であること」を絶対化すること

「絶対なんて絶対ない」ってそれはもうすでに絶対です

RADWIMPS「37458」

 超越的な審級なき世界=意味を喪失した世界に「グッバイ」と別れを告げ、「俺の」、「私だけの」世界だけで成立する絶対的な正義を礼賛する——言い換えれば、「グッバイ宣言」は、超越的な審級の成立不可能性という相関主義的状況を逆手に取り、そうした不可能性こそがまた別の「絶対」であると宣言すること、超越的な審級=絶対的なものが成立しないということが絶対的であるとみなすことによって、別の「絶対」への回路を確保しようとする試みであるともいえる。「引きこもり」とは意味を失った世界へのアクセスを拒否することであり、これを絶対的な正義であると礼賛するグッバイ宣言は、意味の喪失した世界=絶対的な審級なき世界を絶対的に退けると同時に、世界に絶対的なものがないこともまた絶対的なことであると位置付けることで、絶対的なものへの回路を逆説的に確保しようとする。
 この意味で、「グッバイ宣言」の上の試みは、カンタン・メイヤスーが『有限性の後で』において展開した主張と似たような地平に立っている。メイヤスーは物自体を思考する可能性を証明するべく、相関主義者の「世界がこうであるという必然性はない」という主張を一旦受け入れた上で、その”非”必然性をラディカルに先鋭化させる形で「世界が別様である可能性が絶対的であること」=「偶然性の絶対性」の論証を試みた(注7)。「グッバイ宣言」と『有限性の後で』は、ともに相関主義を批判し絶対的なものへのアクセス可能性を追求するという問題意識に立ち、絶対的なものをめぐる逆説的な論理を展開している。

 「グッバイ宣言」は、意味を喪失した社会に別れを告げ、社会から逃避し引きこもることを絶対的な正義であると擁護することで、絶対的審級なき世界に生まれ落ちてしまった我々の生を(それはどこまでも主観的な論理によってでしかあり得ないが)肯定する——と同時に、メランコリーの時代における絶対的なものの不可能性を、この不可能性がまた絶対的であるという論理で捉え返すことで、逆説的に絶対的なものの可能性への方途を開く、すぐれて反相関主義的な側面を有しているのである。

「ぼくらはみんな意味不明」と存在を抱える世界の可能性

——あえて、理性と世界の相克に答えること

 ピノキオピーの「ぼくらはみんな意味不明」は、人生の無意味性を正面から引き受けた上で、それでも「君と笑っていたい」と歌う。一見するとあまりに素朴なラブソングであるが、この君との日々は「ぼくらはみんな意味不明」であることに正面から向き合った上でのものであることに注目したい。

生きてる意味も 頑張る意味も
ないないない無駄かもしれない
千年後何も残らないけど それでも君と笑っていたい
ぼくらはみんな意味不明だから
ぼくらはみんな意味不明だから

ピノキオピー「ぼくらはみんな意味不明」

我々は意味がない世界で「生きなければならない」という被投性の中にいる。生きる意味は見つからないし、情熱を向けるだけの何かを見つけられない。だが、意味はないけれど、確かに我々は生きている。息をして、寝て、ごはんを食べる。美しい景色に感動するし、愛する人と笑っていたいと願う。

それでもぼくらはトンネルで息を止める
折り紙で鶴を折る
肉球を触る
横断歩道の白い部分だけを踏む

ピノキオピー「ぼくらはみんな意味不明」

横断歩道の白い部分だけを踏んで歩く——何故そんなことをするのか、と問われても、そこに意味など特にない。
 カントの超越論的弁証論が示すように、我々の理性は「私は何故生きているのか」と問わずにはいられない。だが、意味を喪失したメランコリーの時代に生きる我々はこの回答を持ち合わせていない。我々は生きる意味を問わずにはいられない人間理性と現代社会における生きる意味の喪失の相剋に引き裂かれている。
 だからこそ、この「何故」に、ピノキオピーは「人間が意味不明な存在だからだ」と答える。この答えは生きる意味の内実は与えてくれずとも、人間理性を慰撫する「生き抜くための術」となる。「なぜ生きる意味はないけれども生きなければならないのか?矛盾ではないか?」と問いかけを止めない人間理性に対し、「その通り。ゆえに我々は意味不明な存在なのだ。」と回答する。答えになっていないのではないかという指摘はもっともである。だが、この答えはあくまで一つの答えを提示している点で、積極的な生存戦略だ。

生きてる意味も 頑張る意味も
ないないない無駄かもしれない
千年後何も残らないけど それでも君と笑っていたい
夢を叶えても 悟り開いても
結局は孤独かもしれない
おばけになっても 虚無に還っても
それでも君と笑っていたいな
ぼくらはみんな意味不明だから
ぼくらはみんな意味不明だから

ピノキオピー「ぼくらはみんな意味不明」

生きる意味を喪失した「メランコリーの時代」にあって、ただ、君との幸せな日々を願う。生きる意味などなくたって、君と笑っていたいと思う——ぼくらはみんな意味不明なのだから。この回答を内実のない詭弁だと批判することは容易いが、際限のない問いの前で途方に暮れ立ち止まるのではなく、問いになんとか回答を用意しようとする態度は、簡単に退けてよい戦略であろうか。

——「存在が抱える世界」と「存在を抱える世界」はともに在る

世界は 世界は なんとなく終わりそうで
存在を抱えたまま 夕焼けに溶けていくよ

ピノキオピー「ぼくらはみんな意味不明」

 カントは、認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従うのだ、と主張し、それを「コペルニクス的転回」と表現した。それは、物自体としての世界が我々存在を抱えているという世界観から、我々がそれぞれ認識論的主観主義的に世界を抱えているという世界観への転換であった。その意味で、カントの成し遂げた「コペルニクス的転回」は、コペルニクスが主張した天動説から地動説への転換とはちょうど逆の転換を為している。
 その意味で、今、相関主義的世界において必要とされているのは、「コペルニクス的転回」を真にコペルニクス的な意味で成し遂げることである。「我々が抱える世界」ではなく、「我々を抱える世界」の可能性を描くこと。だが、「我々を抱える世界」は相関主義の攻勢を受け、風前の灯火にある。上の一節が象徴的に示しているように、「世界」は「終わりそう」で、「存在を抱えたまま夕焼けに溶けて」しまいそうな状況にある。ゆえに、存在を抱えるものとしての世界の可能性を閉ざそうとする相関主義に対して、「世界が存在を抱えたまま夕焼けに溶けて」しまわぬよう、我々はこの「存在を抱えた世界」を擁護しなければならない。
 だが、この「我々を抱える世界」の擁護は、決して「我々が抱える世界」を単純に放棄する仕方ではあり得ない。そうなれば、カントが生涯をかけて克服した独断論的形而上学を再び跋扈させることになってしまう。「我々が抱える世界」を失うことなく「我々を抱える世界」の可能性を取り戻すこと——マルクス・ガブリエルは『なぜ世界は存在しないのか』において「我々が抱える世界」と「我々を抱える世界」の両方を包摂する新しい実在論のモデルを提示した。前者(彼の言葉では構築主義)は一切の存在を社会的-文化的に構築されたものとみなすことで観察者に対する現われ以上のものを語る権利を我々から剥奪する。後者(彼の言葉では形而上学)は現われの背後に実在を措定することで観察者に対する現われとは根本的に異なるものとして世界の真の姿を思い描く。だが、構築主義のように世界を観察者にとってだけの世界として一元的に解することも、形而上学のように世界を観察者のいない世界として一元的に解すことも、根拠なき単純化に過ぎない。いずれも現実を一面的にしか見ておらず、現実を記述するのには不十分である(注8)。「この世界は、観察者のいない世界でしかありえないわけではないし、観察者にとってだけの世界でしかありえないわけでもない」(注9)——相関主義的世界を克服するために必要なのは、「我々が抱える世界」という世界観が、唯一のものではないということ、そして、この世界が「我々を抱える世界」でもあるということを認識することから出発せねばならない。
 ここから、新しい実在論の構築に向けて存在を認識から切り離す形で再定義し、「意味の場の複数性」という方法で存在論と認識論の両立を図ろうとする…というように『なぜ世界は存在しないのか』では議論が進行するのであるが、ここでもう一度、「ぼくらはみんな意味不明」の上の一節に立ち返ろう。改めて考えると、「存在を抱えたまま夕焼けに溶ける」世界とは、まさに「我々が抱える世界」と「我々を抱える世界」の両者が見事に胚胎する表現ではないだろうか。それは一面的には上で検討したように「存在を抱えた」世界という表現によって物自体としての存在論的世界を捉えているのだが、その世界が「夕焼けに溶ける」という表現は、我々が普段太陽や月を外的空間において直観するようなものとして、言い換えれば個々人が認識論的主観主義的に認識している対象として、世界を呈示しているといえる。この意味で、「ぼくらはみんな意味不明」には、ガブリエルが『なぜ世界は存在しないのか』において取り組んだ課題=存在論と認識論の両方を包摂する実在論の追求の断片が見いだせるといえよう。

 「ぼくらはみんな意味不明」は、まずもって、生きる意味を喪失したメランコリー的感情と問いを止めない人間理性の相剋に引き裂かれた我々を絶え間ない苦しみから救い出そうとする。終わりのない意味の問いに「ぼくらはみんな意味不明だから」と、なんとか答えを出そうとする。同時に、意味の喪失を招いた相関主義的世界が唯一の世界の在り方ではないことに注意を惹きつける。確かに相関主義の影響力は堅強で、「存在を抱える世界」は今や風前の灯火である。だが、「存在が抱える世界」もまた、同じ権利で存在し得る。一切が観察者にとってだけの世界なのではない。同じように、我々の認識に依存しない世界=絶対的なものは可能である——「ぼくらはみんな意味不明」は、相関主義を退けるのではなく、相関主義的世界を受け入れたうえで、その特権性に対し、別の世界の可能性を静かに呈示するのである。

結論

 我々は、相関主義の世界に生きているという実存感覚を有している。絶対的な正義や善の不在。そうした時代において、我々は生きる意味を失っている。我々は「何をしたいわけでもないが、何もしたくないわけでもない」というメランコリーの時代を生きている。
 この相関主義の世界を、「グッバイ宣言」は引きこもりを絶対的な正義として礼賛することで、あるいは、それを通じて逆説的に絶対的なものへの回路を確保することで乗り越えようとする。「ぼくらはみんな意味不明」は理性と世界の相克に何とか答えを出そうとすることで、あるいは、「存在を抱える世界」=我々の認識に依存しない世界が同時に可能であることを呈示することで、相関主義の困難に対処し、相関主義ではない世界の在り方の可能性を描き出す。
 そして、この「相関主義の世界をどう乗り越えるのか」をめぐる挑戦は、2010年前後以降の哲学的潮流=思弁的実在論による相関主義批判の文脈と軌を一にする。「グッバイ宣言」における「絶対が不可能であることの絶対化」とカンタン・メイヤスーの「偶然性の絶対性」、「ぼくらはみんな意味不明」における「"存在を抱える世界"と"存在が抱える世界"の両立」とマルクス・ガブリエルの「新実在論における存在論と認識論の両立」——いずれも「この不安定な世界をどう生きるのか」というあくまで実存的な問題意識から出発し、何とか「高さ」(超越性)と「広さ」(普遍性)を回復すべく、絶対的なもの、我々の認識に依存しない世界の可能性を模索している(注10)。
 「相関主義の世界をどう乗り越えるのか」——この問いに答えることは簡単ではない。それは単に思弁的な問題ではなく、社会に被投的に産み落とされる我々は、まずもって現実社会の在り方や目の前の日常に大きく影響を受ける。テストで良い点を取れば勉強しかできない奴だと罵られ、テストで赤点を取れば落ちこぼれだと嘲られる。上司に媚びへつらえば自分の頭で考えろと檄を飛ばされ、上司にいざ意見を言えば舐めてるのかと怒鳴られる。社会で生きていく我々は、日々、確かな正解がないことを実感し、苦しみ、もがく。
 そんな中で、哲学は、音楽は、決して特効薬とはなり得ないが、我々が日々生きる上での支えとなりうる。絶対的なものの可能性を思弁的に考えることで、現実社会に生きる苦しみを和らげることができるかもしれない。メロディに心をゆだね歌詞のメッセージに耳を傾けることで、ふと、開けてくる別の世界がある。日々の実存に関わり、それを支え、助けること——そんな風に、哲学は、音楽は、確かな、大きな力を持っている。

脚注

(注1)ここで相関主義(correlationisme)という用語は、カンタン・メイヤスーの相関主義批判の文脈を念頭に措いている。以下、本論においてはこの語はメイヤスー同様「カント以降の哲学、物自体の認識不可能性・絶対的なものの不在を主張する思想一般」の意味で用いる。議論の詳細はメイヤスー『有限性の後で』を参照されたい。
(注2)やや脱線だが、金属バットの持つ暴力的なイメージについて、ロールプレイングゲーム『MOTHER』を手掛けた糸井重里氏の以下の発言は興味深い。以下、インタビュー記事(ファミコン必勝本(JICC出版局(現・宝島社)1989年5月19日号))より一部抜粋。「――武器やアイテムなども、現代を舞台にしたことでかなり苦労しませんでしたか? 現代で、しかも子供が持てる武器なんて限られてくるからね。バットを持たせるくらいしかないんですよ。でもバットで敵を殴るっていうのは、その光景を頭に浮かべると陰惨だからね。戦っているイメージを呼び起こしたくないんだ。戦闘なのに、イメージを与えないでくれっていうのは矛盾している。それと、バットにランク付けもできない。木製のバット・コルクバット・金属バットなんてやっても、陰惨さが増すだけだし。特に金属バットはアブナイよね(笑)。」
(注3)ここで「欲望的」とは、同曲の歌詞において示唆されている薬物をめぐる描写を指してのことである。「注射の針」、「オピウムの種」、「カラカラの林檎」など、同曲には薬物を連想させるキーワードが多くある。
(注4)深入りしたい向きは、谷川卓「穴の存在論の哲学的意義」(『科学哲学』2022年54巻2号)などを参照されたい。左の論文はインターネットで閲覧可能。
(注5)宇野常寛『ゼロ年代の想像力』
(注6)宇野常寛『ゼロ年代の想像力』
(注7)カンタン・メイヤスー『有限性の後で:偶然性の必然性についての試論』(千葉雅也、大橋完太郎、星野太訳)
(注8)岩内章太郎『新しい哲学の教科書』「第Ⅳ章 新しい実在論=現実主義」
(注9)マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』(清水一浩訳)
(注10)「高さ」(超越性)と「広さ」(普遍性)とは、岩内章太郎『新しい哲学の教科書』におけるキーワードである。同書は現代実在論を「高さ」(超越性)と「広さ」(普遍性)を回復する運動として読み解いた一冊である。


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