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「コワレル。」


コ ワ レ ル 。

ていうコトバに、憧れていた時期があった・・・。

あの時何かに「ゼツボウ」して、この看板が目の前に見える歩道橋の上から、僕は飛び降りて死のうと思った。

だけど、飛び降りることはしなかった・・・。

何かさ、しばらくこのコーラの看板見てたら、無性に

「コーラ飲みてぇ・・・」

て、思えてきたんだ。

そんで気がついたら、コーラ買いに歩道橋下のコンビニに向かって歩き出してるんだよね、自分・・・。

さっきまであんなに「死んでやる・・・!」とかって思ってたくせに、結局僕の苦しみなんて、コーラ一本で癒されるようなものだったみたい。

そう思ったら、何か笑えてきた。

それで、コンビニでコーラ買ってからまた歩道橋の上に戻って、今度は看板の目の前で

コーラ飲みながらいろいろ考えたよ、なんで人ってあんなに簡単に、「死ぬ」なんてコトバを考えたり言えたりするんだろ・・・てね。

人間なんてそんな簡単に死んじゃいけないイキモノのはずなのにさ・・・。

たぶんね、「死ぬ」とか「コワレル」っていうコトバが、ちょっと最近美化されすぎなのかもしれない。

そういうのって本当はすごく大変で、悲しくて、カラになるだけの事実なのに・・・。

これじゃ何か自分が現代に生まれて、当たり前のように死んでいくみたいでさ、

 「おい、流行もんかよ、死ぬことって・・・。」

なんて思えてきたりもするしね。

そう考えたら、何かこれじゃーカッコよくないじゃん、自分・・・。

まだたいした人生も生きてないのに、どこかで語り続けられるようなすごい出来事だってまだやらかしてないのに、結局、まだ何もしてないのに・・・死んでられっかよ!

て心底思えてきたんだよね。

そんなんじゃ今ココで終わってられないじゃん。

もっと、こう、自分を残さなきゃ・・・。

もっと、たくさんの人と出会って別れて傷ついて、傷つけて・・・。

そうでもしないと、僕が本当に壊れるときに、選べないじゃん・・・。

自分がコワレルことのできる基準が・・・。

ていうワケで、僕は生き続けるコトにした。

大切なモノはキミだけじゃないしね、たぶん・・・。

きっと何かに裏切られたとしても、まだ僕にはいろいろ残るんだ・・・。

だから僕はこれから、こんなコトバを簡単に言うヤツなんて、すぐけとばしてやるんだ。

 「これから何を信じて生きていけばいいの・・・」

信じるモノなんて、自分でみつけろよ。

まずは自分自身を、自分でを信じてやれよ・・・。

誰かにかまってほしくて、誰かの同情がただほしくて、こんなセリフいうヤツは、何も残らないよ。

せっかく生まれて生きてきたのに、何も残らないで終わっちゃうよ・・・。

簡単に「ゼツボウ」や「裏切り」を、同情や慰めのコトバをもらうための道具にするなよ・・・。

カッコワルすぎだよ、それって・・・。

きっと本当の「ゼツボウ」を味わうコトがあるとしたら、たぶんそれは人生においてのひとつの「キセキ」なのかもしれない。

「キセキ」に出会って、自分が「コワレル」・・・。

そう思ったら、悲しい理由ばかりが「コワレル」ワケになるとは限らないよね。

やっぱりこれじゃー、よくわからなくなるよ・・・。

もしかして人間ってさ、「コワレル」ために生きてるのかな?

だって、人間って必ず死ぬじゃん・・・。

だったらやっぱり、「死ぬ」コトも「コワレル」ことも別に特別なコトには思えなくなるよね。

でもただひとつ僕が言えることは、こうやってココでコーラを飲んでいられる「いま」は、もう二度とやってこないっていうこと・・・。

大切なのは「いま」からの自分なんだよね。

だから死ぬまで、生き続けないとね・・・。

生きるって、繰り返すことでしょ?

特別じゃない毎日を・・・。

あっ、もうそろそろ明日がやって来るや・・・。

とりあえず、ココから歩き出そうかな・・・。

看板の明かりが消えてしまう前に、今日を始めるコトを考えないとね・・・。

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