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勿体ぶらずにノスタルジックに浸っておけ


5時間近く座り続けたら、いくら新幹線のふかふかの椅子でもお尻が痛い。
珍しく眠れなかった実家からの帰り道。
GW最終日。

母に手を振って、父からのLINEの文章を眺めて、新幹線に乗る瞬間の寂しさは、東京に帰ってきて普段使っている電車に乗り込むともう、氷の溶けて薄くなったアイスコーヒーのようにぼんやりとしたものになった。
特別だった約1週間を尻目に、じわじわと自分の日常にまた、体が溶け込んでいく。

1年間のうち、私が実家の敷居を跨ぐことができるのは約3回。
それもいまは幸福なことにおやすみがもらえる環境にいれるからであって、この先この回数がどう増減するかはわからない。
3回会うと、母も父も、祖父も祖母も歳をとる。ずっと工事中だと思っていたマンションは建つし、お気に入りだと思っていたカフェも本屋も更地になっていたりする。
純粋に寂しいと思う。まだ、寂しいと思える。

自分の生まれ育った家がきちんとあって、育ててくれた父や母が、祖父や祖母がいてくれるから、まだこの場所を、愛おしく思える。
あと何年、あと何十年経てば、あそこは、私の故郷は、知らない街になってしまうのだろう。寂しさすら感じる隙もないくらい、新しいものに変わってしまうだろう。

海が近い街に生まれたせいか、東京に住んでみても、海が特別なものとは思えなかった。
でも私は、そんな自分がなんだかいやで、海を見て声に出して感動する友人がなんだか羨ましくて。
過剰に感激してみせた。「海だあ!」なんて甲高い声を出して、漫画のように高揚してみせた。
そういう、自分を演じた。

故郷で過ごした18年。上京してから10年。
この数字が逆転した時、私は海を見て、何を思うのだろう。
心の底から感動してしまえたとき、きっと私の中の故郷の海は色褪せてしまって、そこはもう、知らない街になってしまっているのかもしれない。

そのときを考えるとゾッとする、なんて言いながら、思いながら、口に出しながらも、
都会の人の海の中で、私は平然と息をする。
氷の溶けてしまったアイスコーヒーの風味を見出すのは、プロのバリスタでも難しいらしい。

新幹線で5時間。
その先にあるものを、ノスタルジックだと思えるうちに、まだ、愛おしいと思えるうちに。


次の10連休のチャンスは11年後だという。
そのときには私の海は、一体どうなっているんだろう。

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