死者の歳を数えてはいけない。自分のことだけ考えてはいけない。

精神的な貧乏人が本当に貧乏になってコジキで糊口をしのぎ、必死でセレブのマネごとをしている。もうみすぼらしいとか哀れとかの感情も沸かない。様子を眺めて感じるのは、「無」だ。

普段、狭い部屋でストレスまみれの生活してるから、誕生日くらいは高級ホテルで現実逃避したい。

前から泊まってみたかったけど、せっかくの高級ホテルで願望を満たすだけではもったいない。動画を撮り雰囲気を文字にするが、レベルが低くて見てらんない。

國光夫妻を見てると無になれる。ブッダが無の境地に達したのは、哀れな人間を見続けたからなのかもしれない。

亡くなった妹の誕生日のお祝いとも言っていた。グータラ無職がただただ欲を満たすという罪悪感を、キレイゴトで正当化しようとしている。

わざわざ正当化するということは、言動の矛盾や罪悪感に気付いているのだろう。脳内にあるのは、もう後戻りはできないならついでに金儲けしてやれという無敵の思考。妹を利用して、ホテル代金を詐欺で回収してやれ。

冒涜だ。
こいつらは故人を偲んではおらず、利用してるだけだ。

もし自分の娘が同じことしてたら、僕なら引っぱたく。実際の両親は引っぱたくこともなく諦観を募らせ、関係ごと放棄した。これは仕方ない。どうしようもない。同情しかできない。マヤさんの両親の苦悩が目に浮かぶ。

成人したら責任は娘本人にあるとは言え、親には製造責任がある。どこまでいっても娘は娘だ。小学生からまるで成長してない國光夫妻は、どう考えてもリコールの対象だ。籍を抜こうが骨肉の争いをしようが、血の繋がりは消えない。

もう関係ありません、では済まない。自分の遺伝子が人様に迷惑を掛けて人類に不幸を撒き散らしているのだ、僕なら力づくでも止めさせる。

子供のいない夫婦がもし捕まったら、身元引受人は家族となる。法律でも両親に責任があると言っている。兄弟でも知り合いでも良いが、もう全員サジを投げていなくなった。

國光夫妻の一連の流れを見続けているが、マヤさん限って言えば人に恵まれてると思う。これは両親を含めた周りの人のチカラだったのだ、と今は分かる。

本人に思いやりがなくクズすぎて、その恵まれた環境を自ら遠ざけた。自分を肯定してくれる人を優遇し、否定する人を拒絶した。

勘違いヤローの典型的な失敗パターンだ。結果、イエスマンばかりとなり、一生、勘違いに気付くことはない。自分の欠点に気付けず反省もできない。

金がなくなるとイエスマンもいなくなる。本当に心配して苦言を呈してくれた人はもうとっくにいない。

マヤさんは半分気付いている。私が悪かったのかもと。でも肥大したプライドがその気持ちに蓋をして、それを旦那も助長する。「マヤちゃんが悪いはずないじゃないか」。

滑稽とはこのこと。必死に2人の世界で引きこもる。現実はもう辛すぎて直視できない。

一人でいる孤独より、二人でいる孤独のほうが辛い。同じように一人で引きこもるより、二人で引きこもる方がタチが悪い。

幸せも不幸せも負の感情も、シナジー効果が働いてしまう。だから夫婦の坂道はほぼ垂直となり、真っ逆さまに転がり落ちる。

やらかしたことを考えれば、今更、過ちを認めて謝罪するなんてことなんてできない。プライドも許さない。今更、転がり落ちた坂道を後戻りして、コツコツ登っていくことなんかできない。

夫婦は蜘蛛の糸を探している。
一気に民衆の上に立って、全世界の人を見下せるところまで昇れるような蜘蛛の糸。

が、そんなものはない。
芥川龍之介の『蜘蛛の糸』よろしく、もしあっても切れることだろう。

ブログ、note、YouTube。。。どれもこれも頓挫する。蜘蛛の糸を掴めるのはひと握りの人たちだけ。掴むには計画性と努力が必要。そして糸を切らずに昇りきるには煩悩と執着を捨てて、思いやりと感動を与え続けないといけない。

あの夫婦にはなにもない。努力、計画性、思いやり、優しさ、煩悩と執着を捨てる意思。。。なに一つ持ち合わせてはいない。

死者の誕生日を数えるのは、弔いや偲ぶこととは違う。

これは死者に執着するという現実逃避であり、仏教では「やってはいけないこと」と言われている。スピリチュアル的な解釈では、現世で歳を数えられると死者が成仏できない、と言われる。

仏教は何を言いたいか。
「過去に執着せず一所懸命に生きろ」と言いたいのだと思う。過ぎたこといつまでも引きずってんじゃねーよと。さすがのブッダも「死者を冒涜しながら金を稼ぐ」クズにまで救いは用意していないが。

もし夫婦と対面しても、こんな話はできない。2人のレベルが低すぎて、まだ事の真理をディスカッションできる段階ではない。力ずくで病院に連れていき規則正しい生活をさせ、小学生に諭すようにやってはいけないことを覚えさせることから始めなければならない。

芥川龍之介の『蜘蛛の糸』はそもそも児童向けに書かれており、本文には仏教が色濃く書かれている。

昔の児童はそれを読み、なぜ蜘蛛の糸が切れたのかを考えた。そして「自分のことばかりではなく、みんなのことを考えよう」と本質を学んだ。

今は大人ですらそのことを知らない。そもそも本が読めない。本質を知るための文学を理解できず、自分の理解が及ぶレベルの低い動画で本質を知った気になっている。

あの夫婦を僕らは笑えない。
世の中はどんどんバカばかりとなっていく。自分を神とでも勘違いした傲慢な人間は増えていく。

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