パンセクシュアルで2000年代生まれな私の恋愛観(書いた人:かがり)
タイトルにもある通り、私はパンセクシュアルで2000年代生まれの女性だ。
分からない方のために説明すると、パンセクシュアルとは「相手の性のあり方に関係なく人を愛する人」のこと。
私の恋人であるあられはクエスチョニング(自分の性自認が定まっていない)。私は、もしこの先あられが男性になっても、女性になっても、中性になっても、クエスチョニングのままでも、愛し続ける自信がある。
そして、私は2000年代生まれのデジタルネイティブだ。
オフ会で出会って結婚した両親のもとで育ったので、幼いころからインターネットは身近だった。(補足:両親は別に若いわけではない)
小学生になったばかりの頃からネットに触れていて、10歳ごろからは1人でパソコンを使い始め、ネットにどっぷり浸かってきた。
小学生の頃は同級生でネットに触れている子はかなり少なかったが、中学生になるとみんなスマホを持っているのは当たり前、という時代だ。
そんな私だからこそ書けることがあるのではないかと思うので、私の恋愛観について書いていく。
フィクションの恋愛について
子供のころ、なんとなく男女のラブコメ作品が苦手だった。
ちゃおなどの少女漫画雑誌は一度も買ったことがない。ラブコメがメインのドラマなども見るのは避けていた。
小学四年生ごろから、BL作品にハマった。
どういう経緯でBLを知ったかはよく覚えていない。だが当時、好きなアニメの二次創作のBLがネットに溢れかえっていたので、触れるようになったのは自然なことのように思う。
それはもう、どっぷりとBLの世界にハマっていた。毎日推しカプの絵を見て、漫画を読み、小説を読み、妄想していた。
なぜ男女のラブコメが苦手で、BLが好きだったのだろう。
私は保育園児の頃、ボーイフレンドの男の子がいて、キスをしたり、恋愛のようなことをしていた。
だが、それは本当にその男の子が好きだったわけではなかったと今は思う。「恋愛」というものへの憧れだけで動いていた。
たぶん、そんな状態から少し成長した私は、「恋愛」という外身にだけ憧れて人を愛するふりをしていた自分が、恥ずかしかったのではないだろうか。
そしてそれと同時に、「恋愛」へ憧れを向けさせるようなメディアにも、拒否感を持ったのではないだろうか。
ではなぜ、BL作品は好きだったのだろうか。
それは、BL作品には「圧力」が無いからだろう。
男女の恋愛には「しなければいけないもの」という圧力がある。
「友達はみんな彼氏がいる」
「親に孫の顔が見たいと言われた」
「老後が心配」
そんな理由で恋愛を始める人は少なくない。むしろ大多数だとも感じる。
それが悪いことだとは全く思わない。
ただ、子供の頃の私は「男女のラブコメ」に対してそんな圧力を感じ、拒否感を抱いていた。
一方で、BL作品にはそんな圧力を感じない。
相手への感情だけで恋愛へと動いている2人は、美しい。
その美しさが、私がBL作品に惹かれた理由だろう。
(補足:現実世界のゲイやセクシュアルマイノリティとはまた話が違う。あくまでフィクションとしてのBLの話)
現在の私はというと、男女の恋愛を描いた作品も普通に好きだ。
圧力を感じない作品(青野くんに触りたいから死にたい)などに触れて、少しずつ拒否感がなくなっていった。
エレガント人生という男女お笑いコンビのコントを観て、男女のさまざまな恋愛の形を美しいと思えるようになった。
「マッチングアプリで妥協して付き合ってしまった人たち」というコント動画は、まさに「圧力」だけで付き合ってしまった二人のストーリーだ。
私はこのコントがすごく好きだ。
不完全で、ときに誠実ではない、でも優しい人間二人が、不器用ながらも腹を割って歩み寄ろうとする。その姿が、関係性が愛らしい。
恋愛なんてできないと思っていた
あられに告白されるまで、まさか私が誰かと付き合えるなんて思ってもいなかった。
理由は二つある。
「自分の身体にコンプレックスがあったから」と「人とコミュニケーションをとることが難しかったから」だ。
私は小学生のころからずっと肥満体型で、見た目に自信がない。
そして私は「社交不安障害」と診断をもらうほど、コミュニケーションが難しい。人と話すとすごく緊張してしまって、なにか粗相をしてしまわないか不安になる。
中学2年生のころから引きこもりで、あられと出会った日中一時支援事業所でやっと外の世界に出れたばかりだった。
そんな私だったので、誰かと恋愛なんてできるはずもないと思っていた。
そして、それでいいと思っていた。
推しを追って、ゲームをして、音楽を聴いて、創作をしていれば幸せだった。
恋愛をすること、その先にあるものだけが幸せではないと知っていた。
「好きなことをすること」が他の人にとっては小さな幸せでも、私にとってはそれだけで満ち足りるほどの幸せだった。
あられと付き合いだしてから、私の中で恋愛はとても大きなものになった。
何よりも大切な存在はあられだし、少しでも長くあられと時間を共有したい。
あられを愛し愛されるのは、何にも代えがたい幸せだ。
きっと、もしもあられとの恋愛が終わってしまったら、私の中にものすごく大きな穴ができて、悲しみに暮れるだろう。
でも、恋愛をしていなかった過去の私にその穴があったとは思わない。充実していたのは確かだし、私は孤独だった頃の私も肯定したい。
セクシュアルマイノリティの捉え方
私自身がセクシュアルマイノリティだという認識は、あられと付き合うまで無かった。
私は「女の子らしく」はなかったが、性別が女性であることに違和感は無かった。
保育園の頃は男の子とイチャイチャしたことがあったが、誰かと付き合ったことはなかったし、本気で誰かを恋愛的に好きになったこともなかった。
テレビの中の俳優や、クラスメイトの中で、男性にも女性にも魅力を感じていた。ただ、自分がすべての性の人と恋愛ができる確信はなかった。
あられと付き合う前、中学生ごろから、セクシュアルマイノリティには関心があった。
BLや百合に触れていたこと、自分の性的指向が曖昧だったことが関心を持った理由だろう。
セクシュアルマイノリティへの差別に憤りを感じていて、自分も偏見を持たないために知識をつけようと思っていた。
セクシュアルマイノリティの方の体験談をネットで読んだり、当事者が作ったゲームをプレイしたりしていた。
出会ったときから、あられは女性が恋愛対象だという事をオープンにしていた。
そのことについて、特に何も思わなかった。中学時代ゲイの友達がいたこともあるし、セクシュアルマイノリティの人が周りにいることは自然なことだと思っていた。
告白されてまず感じたのは「嬉しい」という気持ちだった。返事には時間をもらったが、「セクシュアルマイノリティだから」ということはあまり考えなかった。あられと共に過ごしてきた時間と、あられという人について考えて、返事を決めた。
子供を産むことについて
あられは身体が女性なので、私たち二人だけでは子供を産むことはできない。だがそれは、私にとってはメリットだった。
あられと付き合う前から、絶対に子供は生みたくないと思っていた。
私には人を生み、育てられるほどの器がない。ゆがんだ重い荷物を抱えている私が、子供を支えていける自信がない。
それと、私は反出生主義にゆるく共感している。反出生主義とは、「人を出産するのは倫理的によくない」という考え方だ。
私が産む子供が「生まれてこなければよかった」と思わない確証はない。幸せになったとしても、それは死によって確実に消える。
補足しておくと、私自身は生まれてきてよかったなーと思っているし、生きるのは好きだ。
他の人が子供を授かることも、特になんとも思っていない。知り合いが子供の話を嬉しそうにしていたら、よかったなーと思う。
私たちは遺伝子を運ぶ形をしているし、何十億年も途切れることなく遺伝子のバトンを繋いできた。だからといって、私がバトンを次に繋ぐ必要はない。
という思想が元からあったので、何をどうやったってあられとだけでは子供ができないというのは、むしろありがたいくらいだ。
友達でいることと恋人でいることの違い
私たちは恋人同士であることを基本的にオープンにしている。
そんな中で、こう聞かれたことがあった。
「友達でいるのと何が違うの?」
私も、付き合い始めの頃は友達と恋人で何が変わるのか、わかっていなかった。
でも、今ははっきりと、友達だった頃と恋人になってからで変化があったと感じている。
私は、質問した方にこう答えた。
「付き合ってから、あられのためなら身を削ってでも支えたいと思うようになりました。付き合う前なら、こうは思えなかったと思います。」
質問してくれた方は、私の答えが響いてくれたらしく、「話してくれてありがとう、俺もそこまで愛せる人が欲しい」と言ってくれた。
おわりに
この記事で、私が恋愛について思っていることがほとんど表現できた。
ここまで読んでくださった方に、何か新しい発見があると嬉しい。