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私は人生というゲームが好き 「選択肢」について考えること (書いた人:かがり)

「The Cosmic Wheel Sisterhood」をクリアした。
素晴らしいゲームだった。三日間、30時間かけてずっとプレイしていた。
ゲームの概要をざっくり言うと「魔女になって占いをするゲーム」だ。プレイヤーが選ぶ行動や会話の選択肢によって、未来が変わっていく。

クリアした後、視点を現実に戻すと、ふとこう思った。
ああ、私はこの人生が好きだ。


クリアした数時間後、パートナーのあられからメッセージが入った。
一日前、あられの気を悪くする発言を私がしてしまって、それが原因であられが実家に戻っていた。
「昨日はごめんね。ちょっと疲れが溜まっててフックしやすくなってたみたい。今からホームに帰るよ」
私はほっとした。

返信しようとしたとき、不思議な感覚になった。
無限の選択肢が、私の前にあるように感じた。
そのときまで、一つの場面では多くても4つほどの選択肢しかないゲームの世界の中に居たから、そう感じたのだろう。

私は丁寧に言葉を選んで、あられとやりとりをした。
自分の気持ちぴったりの言葉をあられに伝えられるということも、当たり前ではないように感じた。
ゲームの中の選択肢では、自分の気持ちに近いものを選ぶことはできるが、ぴったりのものを選べることはそうない。
現実では、自分で選択肢を考え、作り出すことができる。

選択肢を選んで、私が望む結果になるかどうかはわからない。それはゲームも現実も同じだ。
一日前だって、私は選択肢を間違えて、あられの気分を悪くさせてしまった。
でも「間違えた」と思ったら、リカバリーしようと努力することができる。訂正したり、補足したり、謝ったりすることができる。
それでも望む結果にならなくても、できる限りの努力をしていたら「やれることはやった」と思えるだろう。
そのときそのときの、自分が最善だと思う選択肢を選んでいれば、後悔する必要はないはずだ。(現実はそう簡単ではないけど)


自分で選択肢を選べるというのは、とても素晴らしいことだと思う。
それは「自由」そのもので、侵されてはいけない「人間の権利」だ。


私は、選択肢を選べない時期があった。
統合失調症を発症し閉鎖病棟に入院していた期間のことだ。

父の家庭内暴力で警察沙汰になり、一時的に祖母の家で暮らしていたときのことだった。私はとある配信を見て「これは私のためにやっているんだ」という妄想に取り憑かれ「お礼を言いたい」と家出をした。そして警察に保護され、妄想が進みわけもわからぬまま入院した。

そのときは、「おとなしく退院を待つ」以外に選択肢がなかった。
だが、退院がいつなのかはわからず、そして自分のいる施設が本当に病院かということも当時はわからなかった。
私は問題行動を何度もした。布団を切り裂いたり、天井を破ったり、閉じるドアの隙間に食べ物を投げ入れたり。すべて病室から脱出するヒントを得ようとしたものだ。
狂った行動だと今は思う。その行動をしたのは病気で判断能力が落ちたからだと思っていた。
でも、それは「選択肢」を選ぼうとした必死の行動だったのかもしれない。

選択肢が全くない状態というのは、本当に苦痛なものだ。これは、体験した者にしかわからないと思う。
病棟内にも娯楽は少ないながらもある。病棟に設置されたテレビ。自宅から差し入れられた本、CD、紙とペン。私の好きなものだ。
私は入院している間、何にも興味が湧かず、何にも集中できず、何も楽しくなかった。
それは陰性症状によるものだと思っていたが、「選択肢がない状態にいたから」と捉えることもできるのではないだろうか。
現に、退院してすぐに、娯楽を楽しむことができるようになった。

「The Cosmic Wheel Sisterhood」
の主人公は流刑にされた身。このセリフにとても共感できた。



選択肢を選べるということの素晴らしさが、入院していた経験と、「The Cosmic Wheel Sisterhood」をプレイしたことでわかるようになった。
私の人生には無限に思えるほどの選択肢を選ぶ場面があり、その場面ごとに自分で選択肢を作り出すことができる。
そんな自由がある人生が好きだ。
最善だと思える選択肢を丁寧に選んでいきたい。そうすれば、失敗してもいいと思える。未来への希望を持つことができる。

スキルを学ぶ。本を読む。あられと話す。遊ぶ。ごろごろする。
そんな選択ひとつひとつを、大切にしていきたい。

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