ペダルを踏む
ピアノの弾き方を少し勉強したのは、今年、ベーゼンドルファーを買ってからのことだ。
それまでは、意識の中心には弦楽器しかなかった。
いや、正確には、少し違っていて、昨年、木管楽器を買い、フルートの実物を買ってからは、フルートについて勉強したから、それ以前のことになる。
ともあれ、ベーゼンドルファーの音に魅了された。
僕が買ったのは、安いということもあって、アップライトピアノだったけれど、その音色に驚いた。
アップライトピアノを、手間と時間と金のかかる音源の製品にした、という理由がわかった。
もっとも、楽器も、録音の仕方も、小さなルームかホールで、少人数に聴いてもらう音だし、pppやfffを出すのはちょっと辛い。
それはともあれ、ベーゼンドルファーからは、楽器の構造が見えるような音がした。
金属の弦の響き、胴の鳴り。
コトリ、という機械音まで聴こえる。
ベーゼンドルファーを買ってしばらくは、ペダルを意識することはなかった。
弦楽器、あるいはフルートと同じような感覚でいた。
別に、それでもかまわない。
弦楽器弾きのピアノ、でいい。
ペダルを意識したのは、先生のアドバイスをもらってからだ。
先生、と言っても、学校で教えてもらった先生ではないし、高名でもない。
昔、DTMを楽しんでいた仲間だ。
そして、仲間と言っても、10歳以上年長だ。
芸大の作曲科を出て、某大学の教授まで務めた人だ。
僕は、この人の音楽の感覚のシャープさに、当時から気づいていた。
その人に、ベーゼンドルファーで弾いた曲を聴いてもらったときに、こう言われた。
「ピアノらしさという点では、ペダルを使うといい」と。
「ピアノらしさ」とは、何?。
聴いてもらった曲は、ペダルを踏まなくても、それなりに聴こえる曲だったこともあって、ピンとこなかった。
次に弾いた曲は、ペダルの指定が、細かく書かれていたので、その通りにペダルを踏んでみた。
その曲は、なんと、ペダルで演奏するような曲だった。
昔、DTMで管弦楽曲を演奏して、「息遣いが聞こえるようだ」と言われたことがあったが、そんな感じがした。
自分が弾いたピアノの音から、人の息遣いを感じたのだった。
人の息遣い、というよりも、ベーゼンドルファーの息遣い、だ。
その曲から、いや、その曲を作曲した人から、ペダルの使い方を教えてもらった。
その曲を作曲した人、とは、ピアノの詩人、ロベルト・シューマンだ。
時空を超えて、シューマンは、僕に、ペダルの使い方を教えてくれた。
次には、フォーレが、ペダルの踏み方を教えてくれた。
フォーレの曲は、ペダルを踏まないと、音が濁った。
ペダルを踏むことで、美しい和音が響くようになった。
さらには、フォーレの楽譜には、ペダルの記号が書かれている箇所は、ほんのわずかだが、ペダルの記号はなくても、音符の位置が、「ここでペダルを踏みなさい」と言っていることに気がついた。
実に見事な作曲だということにも気がついた。
これこそ、まさに芸術だ。
著作権の関係で、あまり新しい曲は弾けないこともあるのだが、フォーレよりも、少しだけ後の作曲家の曲では、ペダルを踏む位置が、なかなかわかりづらいことにも気がついた。
弾いてみた作曲家は、ラヴェル、ドビュッシー、シベリウス。
音の濁り、つまり不協な音が、表現の要になっているようなところがあって、なかなか悩ましい。
そんなこんなで、遅まきながらペダルの使い方を勉強したのだが、使い方を知ると、使いすぎてしまうような感じもあって、なかなか難しい。
一流のピアニストの凄さを、こんなところからも窺い知った。
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