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1冊目『心はどこへ消えた?』と「10Xなプロダクトを創る」について

新年1冊目。週刊連載の書籍化ということで1つ1つが読みやすいエッセイ集でした。
具体的なエピソードに対して真摯に向き合うことを通じて、立ち現れてくる機微があるんだなと思うと同時に、改めてコロナによってそれまでの日常から自分たちが何を失っていったのかが思い起こされました。

 心とは何か。それは事典で定義されるものではない。心は理論の言葉で語られたとたんに、灰色の標本になってしまう。大きな物語の中では心は窒息してしまう。
 そうではない。心とはごくごく個人的で、内面的で、プライベートなものだ。だから、心は具体的で、個別的で、カラフルなエピソードに宿る。緑なす文学的断片こそが、心の棲家なのだ。
(ちょっと長めの序文 より p.32-33)


同じタイミングで読んでいたプロダクト開発についてのドキュメントと併せて考えたことが2点。
ドキュメントはこちら↓

「人を知る」ということについて

科学と技術が発展し全てのスピードが早い現代において、普通に生きていると「不足しているものはない」と感じられる。故に、針の穴を通すような「自分だけが知っている気づき」の中にだけ、その後大きくなりうるものを孕むと考えている。
(「気づき」からスタートする より)
バイネームで名指しできるほど、具体的な人物のために創る。
(実在する誰かのために創る より)
ユーザーは自分の欲しいものを正しく理解したり、言語化することはできない。 だからこそ観察からスタートすることが重要だ。
(観察する より)

引用してきた部分で述べられているような、具体的なユーザーのストーリーの重要性と、そのストーリーに気づくための観察という話は、心が宿るとされる「具体的で、個別的で、カラフルなエピソード」と通じるものがあるように感じる。
そういった意味で、個々人が私的に利用するようなプロダクトを作るにあたっては、利用者にいかに寄り添うかというのが重要なのかもしれないと思った。

流行が終わっていくタイミング

改めて話題に上がっていましたが、以前からおじさん世代が入ったタイミングで若者は抜けていくみたいなことは話されていた気がします。(便宜上「おじさん」と呼び続けることにします。)
要因としては、「おじさんがやっているもの = ダサい的な見方」や「親世代に見られるのが嫌」といったことなのかなと今まで思っていたのですが、改めて考えてみて流行におじさんが参入するにあたって、流行が言語化されることが大きいのかなと感じました。

「なぜそれが流行っているのか?」や「今その流行りに乗るべき理由」といったものが言語化される中で、元々参加していた人たちの中で共有されていた「エモさ」のようなものが捨象されていく。それが流行の終わりなのではないかなと思います。


ここまでありがとうございました。
アウトプットの習慣化のためまた頑張ります。

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