【要約・感想】『歴史の終わり』フランシス・フクヤマ
1989年に『ナショナル・インタレスト』誌に掲載された”The end of history?”という論文をもとにした著作。リベラル・デモクラシーは人類がたどり着いた政治思想・政治制度の最終形態であり、「歴史の終わり」が訪れたと主張する。
【内容】
① 近代科学の導入と経済の自由化は歴史的必然である
② 政治的民主化は経済的自由化の必然的帰結ではない
③ 歴史のプロセスは「承認を求める闘争」であり、市民を平等に承認する民主制が政治制度の最終形態となる
④ リベラル・デモクラシーにたどり着いた「脱歴史世界」では、国際関係の主軸は経済となり武力による紛争解決は放棄される
⑤ 資本主義は必然的に格差をもたらすが、それはリベラル・デモクラシーの枠組みの中で自由と平等のバランスを調整することで解決される
⑥ リベラル・デモクラシーは「他者より秀でたい」という人間の根源的欲求によって脅かされるが、それを昇華するシステムを内部に持つことも可能だ
「歴史の終わり」という発想は、歴史に始点と終点がある「線分」のような歴史観を前提としている。このような「普遍的な歴史」という発想は、「天地創造」から「最後の審判」に至る過程を歴史とみなすキリスト教的歴史観の系譜であり、歴史の循環を想定する古代ギリシアの歴史観とは異なる。
はじめにフクヤマは、「それがどのようなものであるか」「その変化を進歩だと呼べるのか」という論点を後回しにした上で、歴史には一定の方向性があるということを論じる。「一定の方向性」をもたらすのは、近代科学の営みだ。デカルトやベーコンらによって方法論が確立された近代科学は、過去の人々が積み上げてきた知見に次世代の人々が新たな知見を積み上げていくことによって、歴史に一定の方向性を与えた。(ここではトーマス・クーンの『科学革命の構造』をはじめとする科学哲学の成果、すなわち科学が進歩することに対する疑念については触れられていない)
近代科学に立脚する科学技術もまた一定の方向性を持って「進歩」するものであり、優れた科学技術を持つ国が軍事的優位に立つため、各国は文化的・思想的背景とかかわりなく近代科学を導入せざるを得ない。結果として、科学によって世界に一定の方向性が与えられる。
科学技術の国家的導入、すなわち「工業化」はソ連のような計画経済のもとでも可能だった。しかし、商品・サービスの種類が劇的に増加し、金融・経済システムが複雑化する「脱工業化社会」は計画経済の下では実現されなかった。経済の複雑性が官僚機構のキャパシティを超えたのである。脱工業化社会以降、経済発展のための経済的自由化も不可避なものとなる。
一方で、政治的民主化は経済発展に必須のものではない。むしろ、政治的独裁と経済的自由化の組み合わせ、すなわち「市場志向型権威主義体制」の方が経済成長を実現しやすい。福祉に過剰にリソースを割く必要も、斜陽産業の労働者に配慮する必要もないからだ。政治的民主化が歴史の必然であることを示すには、経済とは別の説明が要る。
尚、ここで「経済関係が政治思想・政治体制を規定する」としたマルクスと真逆の立場を取っている。そして、フクヤマがここで依拠するのが、まさにマルクスが批判したところのヘーゲルなのである。
ヘーゲルは、歴史を「承認を求める闘争」だと考えた。他者と平等に承認されたいという「対等願望」と、他者より秀でていたいという「優越願望」が人間の本質だという。欲望と理性に人間の本質を求めたホッブズやロックとは対照的である。
プラトンは魂の三要素として欲望・理性・気概(thymos)を挙げた。ホッブズとロックはこのうち欲望と理性に注目し、生命の安全と物質的豊かさを保証する社会契約論を発展させた。一方のヘーゲルは、気概こそが人間の本質であり歴史の原動力だと考えた。奴隷解放のために白人が血を流した南北戦争は、欲望や理性によって説明することができない。
政治的自由が保障されない共産主義体制のもとでは、人々は日常の生活において幾度となく気概を傷つけられた。生存や物質的豊かさのために、自身の道徳的信念を曲げなければならないからである。市場志向型権威主義体制にもとでも、人々が気概を満たされることはない。かくして、非民主的な国家は致命的な内部矛盾を抱えることとなり、遅かれ早かれ崩壊し、長期的には歴史の終着点であるリベラル・デモクラシーに到達する。その意味では、1806年のイエナ・アウエルシュタットの開戦の時点で、すなわちフランス革命の理念がヘーゲルの住むドイツに到達した時点で「歴史の終わり」は到来しており、以降の時代はリベラル・デモクラシーが徐々に世界に定着していくプロセスだったと言える。
現代の世界は、リベラル・デモクラシーを採用した国々による「脱歴史世界」と採用していない国々による「歴史世界」に二分される。脱歴史世界では経済が国際関係の主軸となり、苛烈な経済競争が繰り広げられる一方で軍備競争は行われなくなる。歴史世界では依然として武力外交が蔓延り、多種多様な宗教的・民族的・イデオロギー的衝突を経験する。
無論、脱歴史世界においても民族主義に基づく国境線は残存する。政治的には民族国家にわかれているが、経済的には自由主義に対するコンセンサスによって一種の統合が果たされるのだ。
残存する非民主主義国家に軍事的攻撃を仕掛けて憲法を書き換えようという試み(まさに太平洋戦争におけるアメリカのような)は、もはや現実的ではない。相手が核武装していれば尚更だ。しかし、民主主義国同士はイデオロギー上の同盟関係にあり、長期的に見れば強力かつ永続的な同盟を形成する。権威主義体制が内部矛盾を抱えている以上、脱歴史世界は着々とその範囲を拡大していく。
リベラル・デモクラシーは左右両派から批判を浴びている。
左派は、経済的自由化を伴うリベラル・デモクラシーが依然として格差を内包していることを批判する。資本主義は必然的に社会的分業を生み、社会的分業は必然的に職業の貴賤を生む。職業によって物質的豊かさに差異が生じることも問題であるが、より深刻な問題は「低級」とされる職に就く人々の気概が満たされないことだ。
一方で、リベラル・デモクラシーが依然として内包する(かつ構造的に不可避である)格差を認めたとしても、リベラル・デモクラシーに勝る政治制度は構想し得ない。全体主義や共産主義、あるいは宗教的権威主義も、リベラル・デモクラシー以上に物質的豊かさも気概も満たしてはくれない。リベラル・デモクラシーが内包する格差は自由と平等の本質的な緊張関係に由来するが、それらの間のバランスが再調整されることはあっても、リベラル・デモクラシーが別の政治体制に取って代わられることは非現実的であり望ましくもない。
右派からの批判はより深刻かつリベラル・デモクラシーの本質にかかわる。平等な商人によって「対等願望」を徹底的に満たしたリベラル・デモクラシーの社会において、「優越願望」がどのように昇華されるのかという指摘だ。
ニーチェ曰く、普遍化された承認に価値などない。承認の質の方が、承認の普遍化よりはるかに重要だ。そもそも、万人の平等を旨とするリベラル・デモクラシーはキリスト教が世俗化したものだ。そして、キリスト教は強者に対する弱者のルサンチマンから生じた奴隷のイデオロギーである。近代になって平等主義的イデオロギーが広く普及したのは、それが真理であるからではなく、単に弱者の数が増えたからだ。
ヘーゲルはリベラル・デモクラシーを支配者と被支配者の一致、つまり各人が奴隷であると同時に自らの主君である状態だと考えた。しかし、ニーチェは実質的支配者が存在し得ないリベラル・デモクラシーは主君の満足、すなわち「優越願望」をまったく欠くものだとした。ニーチェが価値を見出す「質の高い承認」が得られない社会、すなわち「優越願望」が満たされない社会は、そもそも無価値であるか、決定的な内部矛盾を抱えていると言える。ここへきて、歴史に一定の方向性があるとして「その変化を進歩だと呼べるのか」という棚上げされた論点が浮上する。ビジネスにおける成功とプライベートの充実を志向するアメリカ的生活様式は、欲望と理性を充足させる一方で、気概を安楽死させる。
一方でトクビルは、このような内部矛盾に気づいた上で、人々の生活をささやかながらも改善しているリベラル・デモクラシーの普及を甘んじて受け入れることを選んだ。リベラル・デモクラシーの普及は抗いがたく、彼にできることはせいぜい民主主義以外の選択肢を提示しつつ中庸を説くことぐらいだった。
故に、リベラル・デモクラシーにおいては「優越願望」の“はけ口”が求められる。起業家的成功やスポーツにおける勝利はその一例となり得る。能楽や茶道といった日本の「形式的芸術」も、秀吉における天下統一以降平和を得た日本人が考案した気概のはけ口だったという。
【感想】
「承認欲求が強い」という言葉に違和感を覚えることがある。特に、その言葉が様々な有形無形の承認を勝ち得ている人の口から放たれるときに強く感じる。承認欲求に「強さ」などなく、あるのはそれが「満たされているのか否か」ではないか、というのが持論だ。承認欲求が強くないように見える人は、単にそれが満たされているに過ぎないのではないか。承認欲求は人類普遍の欲求ではないか。
そういうことを考えながら読むと、「承認を求める闘争」として人類史を記述しようとするフクヤマの議論は突飛なようで腑に落ちる。欲望や理性によって政治を記述するホッブズやロックの学問的系譜も、主流派経済学がそうであるのと同じように、世界を単純化し過ぎているのかもしれない。
自分の人生を振り返ってみると、(今となっては落ち着いたが)「優越願望」が努力の源泉となった一方で、「対等願望」を満たす努力は早々と放棄してしまったことが多いように思う。「人並み」にできていないことなんていくらでもあるのに。「優越願望」のはけ口を探す試みは、リベラル・デモクラシーそれ自体が抱える課題であると同時に、そこに住む我々一人ひとりにとっての課題でもありそうだ。