「人命最優先」というお気持ち表明

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2019年4月19日、豊島区東池袋の日出町第二公園前交差点において二人の方が亡くなり、十人が重軽傷を負う悲惨な自動車事故が発生した。このモニュメントは、この事故の被害者を含む全ての交通事故被害者を追悼するとともに、交通事故の根絶と安心・安全な社会を願って、現場近くに設置されたものだ。(豊島区HP: https://www.city.toshima.lg.jp/335/2002181419.html)

碑文にはこう記されている。

平成31年(2019年)4月19日、この地で母子2人が亡くなり、10人が重軽傷を負う悲惨な自動車事故が発生しました。この事故を受けて慰霊碑設置の募金が全国各地から寄せられました。

 ここに、亡くなったお二人をはじめとするすべての犠牲者を悼み、二度とこのような交通事故が起きない社会を築く誓いを込めて慰霊碑を設置します。

                                             令和2年(2020年)4月  交通安全宣言都市 豊島区

交通事故(自動車事故)をゼロにする方法は簡単に思いつく。自動車の使用を禁止すれば良い。毎年約3000もの尊い命を奪う残虐非道な兵器を、どうして野放しにする必要があるだろうか。いきなり全面禁止するのが極端だったとしても、自主返納なんかアテにせずに免許に年齢制限を設けることぐらいできないのだろうか。「人命最優先」ではなかったのか。


「人命最優先」という嘘

言うまでもなく、我々の社会は「人命最優先」という理念を受け入れてはいない。人の命というものに非常に大きな価値を認めてはいるものの、あくまで自由や幸福追求といった他の価値との比較衡量の上で保護されているに過ぎない。自動車は人を殺すが、それ以上に便利だから規制されない。

2019年の交通事故死者数は3215人だ。1990年頃から減少傾向にあり、やっとこの水準まで減ったと言うべきだろう。関係者の努力には頭が下がる思いだ。しかし、依然として年に3000人の命が奪われているにもかかわらず、「人命を守るために自動車を禁止しよう」という声は全くと言っていいほど聞かれない。2年で阪神淡路大震災、5年で東日本大震災の死者・行方不明者数と同程度になるにもかかわらず、だ。もちろん救急車や消防車のように命を救う自動車も存在するが、「緊急車両”以外”の通行を禁止して緊急車両のアクセスを向上させよう」という意見すら聞かれない。結局、我々は便利で快適な生活を送るために、年に3000もの命を無意識のうちに犠牲にしている。

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出所:時事ドットコムニュース(2020年1月6日)

最近では、延命治療において「命の価値」を厳密に定めようとする動きもある。イギリスでは、高額な延命治療に対する給付を認める際の基準として「完全に健康な1年(1QALY)」に対して拠出できる上限を2~3万ポンドとしている。QALY(質調整生存年数)とは生活水準の質で調整した生存年数を表す指標で、例えば植物状態のような質の低い延命の価値を過大評価しないために用いられる。

最も有名なHTA機関は、英国の医療技術評価機構(NICE)であろう。英国では、新規の医療技術を公的医療制度で使用できるかどうかを評価する際に、NICEが有効性と安全性に加え、費用対効果も考慮して決める。

NICEが評価する際の効き目の物差しには、生活の質を加味した生存年「質調整生存年(QALY)」を用いるのが必須で、1QALY(完全に健康な1年)増やすのにかかる追加費用「増分費用効果比(ICER)」を計算して評価する。英国の公式資料では、2万~3万ポンド(約290万~430万円)がICERの上限値、すなわち閾値(いきち)とされる。

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日本経済新聞「医療改革に新たな視点(下) 薬の新評価制度 運用柔軟に」2018/12/11

自動車事故や延命治療の例を引けば、我々の社会が「人命最優先」などという原理を採用していないこと、我々の生活が他者の命の犠牲の上に成り立っていることを容易に理解できる。

しかし、それだけではなかった。新型コロナウイルスによって劇的な生活様式の変更を強いられた2020年、我々は生活のより広範な領域において他者の命の犠牲の上に便利で快適な生活を成り立たせていたことが露呈したのである。


退屈で安全な「新しい生活様式」

新型コロナウイルスによる死者数の増大が大々的に報道される裏で、2020年(1月~10月)の総死者数は昨対比で約1万4000人減少したという。

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出所:日本経済新聞(2020年12月28日)

これについて、「自粛警察の最終的勝利」と題された興味深い論考がある。

コロナの有無は関係なく「新しい生活様式」は、そもそもさまざまな病気から命を守るうえでの最適解だったのだ――言い換えれば「これまでの生活様式」が、感染症や疾患による死亡リスクを高めながら成立していたのだ――とだれもが認識してしまえば「さあ、コロナ禍は終わった。『新しい生活様式』をやめて、マスクを取り、あの頃のように街に出かけよう」などと呼びかけても、素直に賛同する人は多くないだろう。 

 人びとが気軽に買い物に出かけて、レストランで食事をして、顔を近づけて語らいあうことのできた、にこやかで楽しかった「かつての生活様式」のデメリットが「大勢の人の感染リスクや命と引き換えにし成立していた」と強調されれば、人びとにとって「新しい生活様式」は、心理的・道徳的にますます手放すことが難しくなる。

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白饅頭「白饅頭日誌:12月30日「【悲報】自粛警察の最終的勝利」」2020/12/30

昨年末から現在にかけて、2020年が平和で安全な年だったことを示すニュースが次々と報道された。

だが、これらのニュースはどれも驚くようなものではない。「新しい生活様式」とは他人との関わりを最低限に断って家に引きこもることであり、そのような人間関係が希薄になった世の中で事故や犯罪が減少するのは極めて自然なことだ。そのような不幸なイベントはソーシャルディスタンスが接近したときに起こる。いや、事故や事件だけではない。喜怒哀楽を喚起するような、人生に彩りや味わいを持たせる多種多様なイベントは、それがポジティブなものであれネガティブなものであれ、基本的に他者とのかかわりの中で生まれる。他者とのかかわりを極限まで遮断した生活がとても退屈で安全なものとなるのは、はじめからわかり切っていたことなのだ。

逆に言えば、我々が喜びや楽しみを満喫できる社会は、同時に怒りや悲しみを生むことも避けられない。コロナが無くたって、マスクを外して対面で語り合う楽しい飲み会は、顔も知らないどこかの誰かをインフルエンザで殺していた。コロナが無くたって、休日に家族や友人と楽しむドライブは、顔も知らないどこかの誰かを交通事故で殺していた。我々の便利で快適な生活は、常に誰かの命を犠牲にして成り立っていたという厳然たる事実を前に、我々は何を考えるべきだろうか。


「オリンピックなんて言ってる場合か」

オリンピックは4年に一度の祭典だ。出場を目指すアスリートは最低でも4年間血の滲むような努力をしている。いや、オリンピックを目指す水準に至るまでの積み重ねを考慮すれば、たった4年の努力に矮小化することすら失礼だろう。そんなアスリートに対して「オリンピックなんて言ってる場合か」と言えるような状況があり得るだろうか…?いったいどんな理由があって…

余程のことが無い限り「オリンピックなんて」などという軽率な発言が支持を集めることは無かっただろう。しかし、その「余程のこと」が起きてしまったのが2020年東京オリンピックなのである。コロナが今年の夏までに終息する見通しは立っておらず、仮にオリンピック開催時点で日本の感染状況をかなりの程度抑えることに成功したとしても、オリンピックが原因で感染が再拡大するというシナリオも考えられる。コロナは人の命を奪うのだ。「オリンピックなんて」などというセリフは余程のことが無いと口にできないが、人命がかかっている今年だけは「オリンピックなんてやってる場合じゃないだろう」と主張することの方がむしろ自然だ。

あれ?でも皆さん…

今まで「人命最優先」でやってきたんでしたっけ?

あれ?そもそも我々は便利で快適な暮らしを送るために命を犠牲にしてきたんですよね?ピーク時に年1万6765人が交通事故で亡くなっても自動車を禁止しなかったし、家でおとなしくしていればインフルエンザの感染者を100分の1にできたにもかかわらず、楽しくマスク外して会食してましたよね?

あれ?あれれ?


お気持ち表明と社会正義

結局のところ我々は、誰かの命を犠牲にするほどの価値が無いと”感じた”ときに「人命最優先」を掲げて反対しているに過ぎない。仮に新型コロナウイルスが終息したとしても、マスクを外して密集する会食を再開すれば、インフルエンザ等の感染症による死者は緩やかに増加するだろう。では我々は、「人命最優先」の原理のもとで「新しい生活様式」を未来永劫続けることに合意できるだろうか?あるいはもっと単純に、交通事故撲滅のために緊急車両以外の使用を禁止し、延命治療を充実させるために消費税を際限なく引き上げることに合意できるだろうか?

それはできないはずだ。自動車も抑制的な税金も、もしかしたらマスク無しの密集した会食すらも、我々の自由と幸福追求にとって欠かせない要素であるからだ。あるいは、少なくともそう考える人は多いはずだ。

しかし、結局それは「私は自動車が使える便利な社会が好きです」とか「私は人と直接会って談笑しながら食事をとることが好きです」といった「価値観の表明」でしかない。もっとはっきり、「好みの表明」や「お気持ち表明」と言ってしまってもいい。そして、「オリンピックなんて言ってる場合か(オリンピックにはそれほどの価値はないだろう)」というのも「お気持ち表明」だ。

もう一度言う。「オリンピックなんて言ってる場合か」という発言は「お気持ち表明」でしかない。

しかしなぜだろう。オリンピックに(強固に)反対する人々から、まるで社会正義を背負って立っているかのような自信が感じられるのは。「人命最優先」というまやかしの原理を盾に、悪を断罪するかのような調子で強い言葉が用いられているのは。「個人の好き嫌いを社会正義に偽装する」という手法は、アニメや漫画に対する表現規制派の常套手段としてにわかに認知度を高めつつあるが、「オリンピックなんて言ってる場合か」論も彼らと同様の欺瞞に陥っていないだろうか。

「オリンピックなんて言ってる場合か」というのは一つの立派な意見だが、それは「お気持ち表明」に過ぎず、決して社会正義などではない。


国論を二分する問題で、国民が分断されないために

オリンピックはこのまま強行されるかもしれないし、世論に押されて中止されるかもしれない。担当者が超人的な調整力を発揮して、無観客開催や再延期といった折衷案が実現するかもしれない。

いずれにせよ、誰かが笑えば誰かが泣くことは間違いない。それはもうどうしようもないことだ。ただ、泣いた者が笑った者を一生恨み続けるような、決定的な禍根や分断を生むことはあってはならない。

端的に言えば、オリンピック反対派は少し調子に乗りすぎてはいないか。「オリンピックなんて言ってる場合か」論は決して社会正義などではなく、単なるその人の好みの表明に過ぎないのだ。「私はオリンピック無くてもまあいいかな。やるとしても、テレビでちょっと見るぐらいだし」と言っているのと似たようなものだ。いや、推進派の説得を試みるのであればむしろ「ここはどうか譲ってくれないか。確かに我々は普段当たり前に他人の命の犠牲の上に暮らしているが、オリンピックにそこまでの価値が無いと考える人も多い。そういう人々の意見も汲んでくれないか」とお願いするのが筋だろう。間違っても社会正義を装ってはいけない。

そしてもちろん推進派も反対派に配慮すべきだし、実際にアスリートは新型コロナウイルスの深刻さに理解を示している。

 五輪出場にあたっての不安をたずねる設問(複数回答可)では、「大会によって感染症が広まってしまうかもしれないこと」を最も多い25人が挙げており、大会への出場を決めている選手たちの葛藤がうかがえる。「新型コロナへの感染リスク」が18人で続き、「世間の機運が盛り上がらず、出場しても応援や支持を得られないかもしれない」を選んだ選手も15人いた。

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朝日新聞「「感染広げないか」選手の葛藤 代表内定者にアンケート」2020/1/24

もし仮にオリンピックが(強行)開催されたとき、「オリンピックにそれほどの価値は無いという、私の個人的な好みが反映されなかった」と考える反対派の人々は、自身の主張が社会正義だと誤認している人々と比べていくらか穏やかな気持ちで事の成り行きを見守れるのではないだろうか。

もし仮にオリンピックが中止されたとき、反対派が「どうか譲ってくれないか」という抑制的な歎願をしていて、「我々の好みを反映してくれてありがとう」という誠実な感謝を示すことができたら、推進派の人々(やアスリート)もまだしも気持ちの切り替えをしやすいのではないだろうか。

社会正義という概念は確かに存在するが、多くの場合あなたが掲げているその主張は社会正義ではない。悪を断罪するかのような高圧的な言論が将来に禍根を残すような事態を、なんとかして避けられないだろうか。

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