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【成功体験】 人生の基盤が14歳で作られた話

はじめに


私は「努力家」である。

これまで数々の「成功体験」があったが、
そのどれもが「努力家」という性格が役に立っている。

「努力をすれば必ず成功する」

それを信じてずっとやってきたし、
それを体現してきた人生だった。


30歳になる私の人生を豊かにしてきた「努力家」は
中学校2~3年生の時に形成された。
それを今でもはっきり覚えている。

あの日、あの時、あんな思いをしなかったら、
絶対に「努力家」にはなっていない。

そんな過去をふと思い出したため、
覚えている範囲で綴っていきたいと思う。


部活動に明け暮れる日々


当時、私は田舎の中学校に通っていた。
全校生徒は100人ほどで、全校生徒の名前と顔がわかるレベルだ。

クラスは2クラスもしく1クラスだし、
部活動の数も少なかった。

私は幼少期からバスケットボールをやっていたため、
中学校は3年間バスケ部に所属していた。

朝練、授業、放課後練習であっという間に1日が終わる。
土日も部活動だ。

小学校と違い、
部活動がある中学校は本当に時間がなくなる。

まさに部活動に明け暮れる日々だった。


その学校は少し特殊で、
夏〜冬の期間限定で「駅伝部」があった。

市内の中学校が集まる駅伝大会が秋と冬にあるため、
それに向けて駅伝部を結成するのだ。

我が校には陸上部もあったため、
基本的には陸上部員が駅伝部も兼任するのだが、
なにせ人数が足りない。

そこで、
野球部、バスケ部、卓球部等の他の部活にも募集をかけ、
期間限定で駅伝部を兼任する風習があった。

一方で、
この駅伝部は期間限定にも関わらず強かった。
県大会出場した実績もあり、伝統的な部活動でもあった。


中学校1年生の頃
駅伝部募集の張り紙を見て、なんとなく友達と話して、
「一緒にやってみっか〜」
という軽いノリで駅伝部に入った。

「バスケ部 + 駅伝部」
かなりハードな夏休みの始まりだった。


駅伝の魅力を知った出来事


夏の暑さが照りつけるグラウンド。

各部活から集まった30人ぐらいが
同じペースで3000mを走る。

学年は1年生〜3年生。
2年生、3年生は駅伝経験者がほとんどだ。
私を含めた1年生は全員が初心者。

持久走大会で上位に食い込む体力自慢から
友達のノリで参加しただけの人まで、
いろんな人が集まっていた。

私はというと、
これといって体力に自信がある訳でもなかったが、
バスケも体力が必要なスポーツなので、
それなりに走れる方ではあった。

だから、
初めて3000mを走ったが、普通に完走する事ができた。

ただ、走るペースはかなり遅かったし、
みんなで声をかけ合いながら走っていたから、
そこまで厳しいメニューではなかった。
(それでも脱落する1年生は数名いた)

走り終わった1年生はこれで解散。
明日も同じメニューをやるという事だった。

一方で、2,3年生はその後に別メニューをこなしていた。
去年、一昨年と経験していることもあって、
実力の差がすごかった。


そんなこんなで駅伝部の練習を続けていくと、
それなりに走れるようになってきた。

気づけば秋の駅伝大会。
1チーム5人編成。
我が校では2チームが出場した。

もちろん、1年生は雑用と応援だ。
たった1人、K君を除いて。

陸上部のK君は1年生ながら逸材だった。
とにかく走るのが速く、2,3年生を押し退けて、
Aチームに登録された。

Aチームは県大会出場を狙う、我が校の本命である。
ここに精鋭5人が集まっていて、そのうちの1人がK君だ。

しかし、秋大会の結果は惨敗。
県大会出場は逃してしまった。

この大会を持って引退する3年生はみんな涙を流していた。
ただ、私としては感情移入することができなかった。

「あっけなく終わったなー」
と言うのが本音であった。


3年生が引退し、
1,2年生だけで冬の駅伝大会に向けて再スタートした。

私としては、
怖くて話しづらい3年生がいなくなり、大分やりやすくなった。

また、夏の結成時にはたくさんいた1年生も、
この頃には半分ぐらい減っていた。
それなりに厳しいメニューが増えてたから、
気持ちはわからなくもない。


そして、冬の駅伝大会。
2年生がそこまで多くないこともあり、私はBチームに選ばれた。

シンプルに嬉しかったし、
初めて襷をかけて走ることに心を躍らせていた。

体を刺すような寒い日。
黙々とアップして体を温める。
伝統のユニフォームを着て、自分の順番を待つ。

心臓がバクバクするし、
緊張と楽しみが交錯していた。

そして、自分が走る番に。
向こうから仲間が襷を持って走ってくる。
手を振って声をかける私。

襷をもらった瞬間、
今まで経験した事がないぐらい体が軽く、
足が勝手に進んでいった。

走りながら変わっていく景色。
路上では知らない学校の女子たちが応援してくれている。
「やばい…楽しすぎる」

駅伝にハマった瞬間であった。


結局その大会では良い成果を残せなかったが、
私にとっては、駅伝にのめり込むいい経験になった。


どん底に落とされたアクシデント


2年生の夏。
私は当たり前のように駅伝部に応募していた。

「今年こそはAチームを獲得して、県大会出場を目指す」
1年前とは大違いで、闘志剥き出しの自分がいた。

その強い意志に後押しされ、
どんどん厳しいメニューをこなしていき、
メキメキ記録が伸びていった。

気づけば、3年生とK君だけがこなしていた、
いわば1軍のメニューをやらせてもらえるようになっていた。

監督から期待されてるのが実感できる。
とにかく自信に満ち溢れている。
「これはAチームにいけるぞ」
そう確信していた。


ここで、人生の転機となるアクシデントが起きた。

その日は体育祭だった。
女子はマスゲームと呼ばれるダンス演技。
男子は組体操が恒例であった。

組体操のクライマックスを飾るのは「5段ピラミッド」

図 組体操のピラミッド (出典:いらすとや)

私は背が高いため、一番下の5段目に位置していた。
ピラミッドは何回も練習していたし、成功率は高かった。

しかし、崩れた。
崩れた拍子に、上の人の膝が私のふくらはぎに入ったのだ。

激しい痛みが襲い、立つことができなかった。


「ふくらはぎの肉離れ」と診断された。
当然、走ることはできない。

Aチーム目前だったのに、一気にどん底に落とされた。
何度泣いたか、どれだけ運命を恨んだか。

見学することしかできないグラウンド。
声をかけ合いながら走る仲間達。
その場にいるのが辛くて仕方がなかった。


「努力家」の原点


結局、2年生の秋と冬の大会に出場することができなかった。

冬の大会には完治していたが、
心肺機能も筋力も衰えていた私が出場できるはずがなかった。

大会結果はどちらも惨敗。
過去に県大会出場をしていた伝統校は、今や見る影もなかった。


冬の大会が終わった次の日。
駅伝部は解散。来年の夏まで一旦休止である。

しかし、私は走った。
誰かに言われた訳ではない。
誰かに褒めて欲しい訳ではない。

バスケ部の練習でヘトヘトになって帰宅した後、
田舎の暗い夜道を黙々と走った。
毎日だ。

きっと10kmぐらいは走っていたと思う。


どん底に落とされたあの時の悔しさ。
それを思い出す度に奮い立っていた。

「3年生のラストチャンス。絶対に逃さない」

不思議と辛くはなかった。
走ることに夢中になっていた。


夜、田舎の道路を走ってる青年は目立つ。
学校帰りの監督は私が走っている光景を何度も見ていたそうだ。
そして、駅伝部の仲間も。

私が悔しい思いをしていたことはみんなが知っていた。
だからこそ、私の行動はみんなを突き動かした。

私に追従するように自主練をする仲間が増えた。
毎年夏に始まる駅伝部も、春には練習がスタートしていた。
しかも、最初からきついメニュー。監督も本気だ。

でも、全く嫌ではなかった。
全員が一丸となって、本気で県大会を目指してるのが楽しかった。


3年生最後の大会


今年の駅伝部は一味違った。
3年生が10人ほどいたが、全員がAチーム級に記録を伸ばしていた。

しかも、一人だけ飛び抜けて速いK君もいる。
「今年は勝てる。県大会に行けるはずだ」
全員がそう信じて、とにかく走り続けた。


そして、体育祭の日が訪れた。
女子はマスゲームと呼ばれるダンス演技。
男子は組体操。これは毎年変わらない。

私はというと、組体操に参加しなかった。
正確には、組体操の演目を指示する指揮者のような立場で参加した。

異例ではあるが、体育の先生に直談判したのだ。
「私は絶対に怪我したくない。去年のような思いは二度としたくない」
その気持ちを汲んでくれて、指揮者に抜擢してくれたのだ。

おかげで怪我することなく、体育祭は終わった。
そして、無事にAチームに選ばれたのだ。


3年生最後の大会。
今年は他の学校も仕上がっていた。
県大会出場は上位2校のみ。

事前データではどこか出場してもおかしくないような、
そんな接戦具合であった。

しかし、何も怖いものはない。
緊張もしなかった。

それだけやれる事は全部やってきたのだ。
とにかく自信に満ち溢れていた。

コンディションは抜群。
チームの層も厚い。エースもいる。
絶対に勝てる。


ピストルのスタート合図と同時に、
3年間の集大成が始まった。

1,2走者は好タイムで、3位につけていた。
1,2位との差は近いため、逆転は可能だ。

そんな絶好な場面で自分の番が回ってきた。
みんなの想いと汗が染み込んだ襷をもらい、スタートした。

体は軽いし、頭は冷静だった。
場所が変わろうと、走るペースは体に染み付いている。

暗い夜道を1人で黙々と走っていた時から、
この瞬間を待ち望んでいたのだ。

そんなことを考えながら、
楽しんで走ることができた。

結果的に1人抜いて、2位で襷を渡すことができた。


その後はひたすら応援した。
声が枯れるぐらい応援した。

第4走者が出遅れてしまい、
エースのK君に渡った時にはまた3位になっていた。

1位はぶっちぎりで速かったため、
狙えるのは2位の枠。

K君に賭けるしかなかった。
みんなが沿道に出て応援した。

K君はとにかく速かった。
2位と差が開いていたにも関わらず、どんどん差を縮めていった。

そして、ゴール直前。
K君が2位となり、フィニッシュテープを切ったのだ。
県大会出場を決めた、歓喜の瞬間だった。

「あの時諦めなくて本当に良かった」
「努力を続ければ、こうやって報われるんだ」


おわりに


駅伝部での「成功体験」が
その後の人生を豊かにする「努力家」を形成してくれた。

体育祭の日、組体操で怪我をしていなかったら、
絶対にこうはなっていない。

耐え難かったあの日々も無駄ではなかったのだ。


そう思うと、
息子の人生におけるターニングポイントって
近い将来で訪れるかもしれないなと思う。

もしかしたら、
中学生になる前に起こるかもしれない。

子供だとしても1人の立派な人間だ。
小さいなりに自分で考えて行動している。

私はそれを尊重して、正面から向き合う必要がある。
過保護になりすぎず、どんどん挑戦と失敗を経験させたい。


息子が大きくなったら、今回の話をしたいな。
ちゃんと聞いてくれるだろうか?
信じてくれるだろうか?

パパの人生が変わった話。
すごく楽しみだ。


ぽん太
(4,435文字)

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