世界の解像度を上げるために、学ぶ
「人は何のために学ぶのか」
皆さんも一度は思ったことがあるだろう。
この永遠の問いに、最近、一つの答えらしきものを見つけた気がするのだ。
「目に映る世界の解像度を上げて、世界をくっきりはっきり見るために学ぶんだよ。」
と。
世界がぼんやりとしてた頃
突然だが、うちの実家の話をしようと思う。
うちの実家は、サッカーと野球なら野球派だった。
父親が帰ってくれば、テレビのチャンネルをプロ野球にする。
父親の休みの日には2人でキャッチボール。
ハマったゲームは、サカつくでもウイイレでもなく、パワプロ。
そんな家庭で育ったためか、野球のルールは分かっても、サッカーのルールはとんと知らぬまま大人になった。
試しにテレビでサッカーの試合を見てみても、ルールがまるで分からない。
審判が吹く笛も、なぜ吹かれたのかわからない。
選手同士がぶつかるなどして転んだら笛が鳴るのかと思いきや、別に必ずしもそうではない。
初見殺しルールの定番「オフサイド」の存在が、審判の笛をさらにややこしくさせる。
本当にルールも戦略も何も分からず、試合を見てもただぼーっとボールが行き交うのを眺めるだけなので、大人になった私はサッカーを楽しむことを諦めた。
サッカーというスポーツを、ただぼんやりとしか捉えられなかったのだ。
スポーツ観戦の解像度
ところが、ひょんなことから、私はサッカー大好き人間になった。
今の私は、週末はスタジアムに試合を見に行き、地元のJリーグのチームを夢中で応援する。
あんなに意味が分からなかった審判の笛。
今では審判の判断が不服だと
「おい!今のファールだろ!!」
「あれでハンド取られちゃたまったもんじゃないぜ」
などと不満を口にするほどだ。
あんなにサッカーが分からなかった私に何が起きたかと言うと、サッカー大好き、サッカーひと筋な彼氏ができたのだ。(のちの旦那である)
だが、彼と付き合ったから自動的にサッカーを好きになれたかと言うともちろんそうではない。
熱心に誘われてスタジアムに見に行った最初の試合は、誠に失礼ながらつまらなくて眠ってしまった。
選手にも、旦那にも失礼である。
やがて同棲するようになると、家のテレビでサッカーを一緒に見る機会が増えた。
隣で、旦那が「今のはイエローカードだろ〜」「うぇーい!!ゴール!!…ってオフサイドかーい」
などと言うもんだから、自然とルールが頭に入ってきた。
ルールが分かると、なるほど面白い。
今まで分からなかった審判の笛も意味が分かるようになり、さらに応援しているチームの戦略や所属している選手の個性なども覚えていった。
結果、サッカーを見ながら
「あそこのスペースが空いているな。あの選手があそこに走り込めば得点につながるかも」
「相手選手は背が高い。対するうちの選手は小柄だ。どう守ればいいだろう。」
などとより詳しいことまで考え、旦那と、あーでもないこーでもないと言い合いながらサッカーを見るようになった。
ルールがわかった私は、より詳しくなろうとしてサッカーに関する情報をたくさん覚えたのだ。
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この間、応援しているチームの最終節(今シーズン最後の試合)があったので、見に行った。
そこでふと、付き合い始めのデートであるにも関わらずつまらなくて眠ってしまった、かつての試合を思い出した。
あれも、最終節だった、確か。
今では考えられないが、試合をぼんやり眺めるだけだったので非常に退屈で、ついつい眠ってしまったのだ。
あれから7年。
昔と今では、何が違うのか。
サッカー自体がつまらないものから面白いものに変化したわけでは、もちろんない。
ルールは7年間ほとんど変わっていない。
言わずもがな、私が変わったのだ。
私の、「サッカーを見る目」が変わったのだ。
ルールを覚え、サッカーを見るという経験を養い、自分で考えてサッカーを見る。
その結果、ぼんやり見ていたサッカーをくっきりはっきり見ることができるようになったのだ。
観光地巡りの解像度
サッカーを覚え、知り、理解した私は、サッカーを鮮明に見ることができるようになった。
これは、サッカーに限ったことではない。
例えば北海道、函館に旅行に行くとする。
新撰組や幕末の歴史を少しも知らない状態で五稜郭公園に行ったとしても、ただの公園でしかない。
だが、少しでも歴史を学んだ状態で行くと(もちろんその場で調べてもいいのだが)「ただの公園」が「新撰組最後の地」に見える。
「土方歳三はどのあたりで戦い、そして死んだのか」
などと思いを馳せることができる。
せっかくの旅行、ただの公園をぼんやりと散歩するのと、歴史に思いを馳せて史跡を散歩するのとでは感覚が全く異なるということ、想像いただけるかと思う。
道を歩くときの、風景の解像度
深く知ると世界の解像度が上がるものの例を、もう一つ挙げたいと思う。
植物だ。
子どもの頃から花や草木は好きだったが、道端に生えている植物が何と言う名前なのかはさっぱり分からなかった。
それが、スマートフォンやAIが進化したいま、道端の植物の写真を撮れば、それがなんという植物であるかをAIが教えてくれるアプリがあるのだ。
道端で出会った花の写真をバシバシ撮り、AIに名前を教えてもらってはどんどんフォルダに溜めていった。
地域にもよるかもしれないが、これらは道を歩けばよく見かける植物だと思う。
だが、名前を全て知っている人は多くないのではないだろうか。
どうだろう。
見たことのある草花はあるだろうか。
名前を知っているものはあるだろうか。
当たり前ではあるが、雑草にも名前がある。
あと、ムクゲやモクレンは庭木になっていることもある多い。
名前を知ると、道を歩いているだけで「あ、またヒメオドリコソウだ」「モクレンの季節かぁ」
となる。
今までぼんやりと眺めていた道も、生えている植物の名前を知ると鮮明に見えてくる。
今では見たことのない植物を見ると、立ち止まって写真を撮る癖がついた。
つまり何が言いたいか
これまで、「サッカー」「旅行」「植物」の3つを例に挙げ、「深く知るとそのものをより鮮明に見ることができるようになる」
ということを述べてきた。
だがそもそもこのnoteのテーマは「何のために学ぶのか」という問いである。
学ぶと、世界がより鮮明に見える。
世界をより鮮明に見るために、学ぶ。
これが、私の主張である。
だが、こんな声が聞こえてきそうだ。
「世界をくっきりはっきり見たところで何になるのか」
「そんな見方をしなくても生きていける」
…確かに。
「鮮明に見える」ことの何にメリットがあるのか、ここが肝心である。
サッカー、歴史、植物、3つの私の例に共通するメリットはただひとつ
楽しみが増えたこと
である。
拍子抜けするだろうか。
「何のために学ぶの?」
「それ、生きるのに必要なの?」
もちろん、サッカーを知らなくても歴史を知らなくても植物を知らなくても生きていける。
でも、私はそれらを知ったことによってそれらをしかと認識し、それによって私の人生の楽しみは増えたと名言できる。
ぼんやり映っていたものがはっきり見えてくると、新たな疑問が生まれたり、知りたくなったりするものだ。
世界が、どんどん広がっていくのだ。
「面白き こともなき世を おもしろく」
怒涛の幕末を駆け抜けた、高杉晋作が残した句である。
自分の人生。
面白いものにするのも、面白くないものにするのも、自分次第である。
どうせ生きてどうせ死ぬなら、面白い方がいい。
人生という定められた期間、どれだけ多くのことを楽しめるか。
人生を楽しむ方法は、いくつかある。
そのうちのひとつが「学ぶ」という方法であると、私は思うのだ。
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