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道と術

「武道」である前に「武術」である事が大切だと思います。

術が道になったのは、戦後GHQ占領政策で武術禁止令からの復活に関係があるとも言われています。昔は剣術、柔術、合気術と言われていたのが、今日では剣道、柔道、合気道と呼ばれています。

武術の先に武道があります。先ずは身体動かして術の鍛錬。術が出来ず、精神修養のお題目唱えるだけで道に到達はあり得ません。

心身一如を通じて判る悟りの境地。禅の世界も只管打座という坐禅修行の向こう側に悟る何かがある。机上の学問で到達出来る境地ではない事は明白です。

最近は、動画でスポーツを習得する方法もありますが、完璧ではありません。私もゴルフスイングは、YouTube動画を参考にする事がありますが、自分に合ったものを見つけるまでは時間がかかります。

逆に言うと自分自身の力量や悪い癖などが理解できていて、かつ動画からそれを修正するエッセンスを抽出出来るかどうかが重要になります。

いわゆる

看取り稽古

です。

学ぶは、真似るから発生した言葉と言われますが、看取り出来るほど目が肥えていないとそれも叶いません。看取り稽古を別の言い方で「技を盗む」とも言えます。

ここで言う「盗む」は、良い意味です。料理の世界でもそうだと言われますね。手取り足取り教わることはなく、皿洗いから始まり、シェフの料理しているのをずっと観察したり、客の残した皿のソースをそっと舐めて覚えていくとか。

教わるのではなく、自分から求めて習得したものは忘れません。身体に染み付いているからです。これが求術というより求道になるのでしょう。

武術のように相手が居て接触が多い体術は、面授面受で初めて体感出来る事が数多くあります。そこには、力にだけ頼る身体操作ではなく、虚実含めた心の交信があります。

ここに術から道に繋がる糸口があります。

仕事も同じです。

足で稼いで人に会わない限りビジネスの機微なんて判りません。その機微は、本読んで学べるものではなく身体で覚えるものだと思います。

コミュニケーション力です。

武術には、形(型)の独り稽古にも大きな意味があります。但し、その型の意味が理解出来ていないと数を繰り返してもある意味無駄だと思います。

型を少林寺拳法では「法形」と言います。法は理合、道理。それを理解して型を繰り返し稽古すると、型に押し込められたものでなく、守破離と言われるように型も形を変えていく。だから型でなく形という字を当てています。

この段階では、本人に自覚はなくとも術から道の修行の過程に入っているのではないでしょうか。でもその術が本物でないと悟りも本当ではないでしょう。

武術も元々は生き残るための生死を賭けた闘いのなかで集大成されてきたもの。だからこそ術のある部分は秘伝とされて、師匠の眼に適った者だけが教わる事が出来る。今はそうした殺伐とした時代ではなく、精神修養の一貫として修練しますが、そのベースになる術が本物というか通用するものでないといけないとデジタル社会に突入していく昨今益々大切だと感じています。

これからの世の中

知徳体

というバランスというか脳学習だけでなく、体学習を見直していくのが益々肝要でしょう。大切なのは学校における学問の場だけでなく、幼少期に自然に多く触れ、社会に出てからもバーチャルでなくリアル社会に身を置く事だと思います。

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