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黄昏のシャコンヌ


 それは、夕暮れ時だった。

 かばんを握りしめると、わたしは注意深く、ホームへと降りた。


 西荻窪駅の改札を抜けると、人々は放射状に散っていった。人波にもまれつつ、北へと向けて歩き始めた。家路を急ぐ人と、駅へ向かう人が複雑に交差し、その間をバスが縫うように、ゆっくりと走り去っていった。陽は沈みかけていた。夜はもうすぐそこにあって、頭上には宵の明星が瞬き始めていた。ポケットから手袋を取り出して両手にはめると、それをまたポケットへ突っ込んで、小さく息を吐いた。すぐそばでは、エプロンを腰に巻いた花屋の主人が、店じまいの準備をし始めていた。


 しばらく行くと、商店街から住宅街へと折れた。その途端に、夕餉の匂いがつんとやってきて、わたしに空腹を覚えさせた。それがどこからやってくるのか、犬のように鼻を突き出して見まわすと、明かりの灯った民家の窓と、そのそばでせわしなく回る換気扇がみえた。そこから吐き出される白い煙は、赤い花を抱え、重たげに身を傾げる椿の植垣をかすめて、景色に溶けていった。そのとき、向こうからやってくる老婆に気づいて、わたしは歩をゆるめた。彼女の手から長いリードが伸びて、その先端で小型犬がちょろちょろと彷徨っている。
「もう始まってるわよ。」
 すれ違いざまに、彼女はそう言った。わたしは帽子のつばをつまみ、軽く会釈をして、そのまま通り過ぎた。なんとなく苦手だった。彼女が。まるで、なんでもお見通しよという、その態度が。犬の爪がコンクリートを打つ軽快な音が、背後で遠のいていった。そのあとで、うっすらとヴァイオリンの音がきこえはじめた。そこでようやくわたしは、故郷に辿り着いたかのように安堵した。


 やがて、ぞうの滑り台がある公園を過ぎ、丁字路を右折すると、左手に目印となる三角屋根の家が見えた。その前には、グリーンのミニ・クーパーが停車している。それを横目に、次の路地に入ったところで、不意に目の前に少女が現れた。
 彼女は道路の真ん中で踊りの練習をしていた。白いワンピースのスカートが、ひらひらと舞っている。
「やあ、今夜も精がでるね」
そう声をかけた。すると彼女は、まわるのをやめて、軽くステップを踏みながら、ウィンクをしてみせた。それから、左足を軸にして、くるくると円を描いて
「これ、カルベリアの踊りなの。」
そう言った。両腕を広げ、手のひらを空へ向けて。それはまるで、風を受けた、かざ車のようだった。赤い手袋が片方脱げて、そばに転がっていた。しかし、突然立ち止まると、こうつぶやいた。
「そうだ。ほんとうは砂漠なんだから、裸足でやらなきゃ。」
それから靴を脱いで、裸足になると、またくるくると回りはじめた。凍てつくコンクリートを踏む小さなその足は、すぐに真っ赤になった。そこで、ヴァイオリンの音は、急にビブラートへと変わった。わたしは音源のほうを見上げた。その窓からは、白いカーテンが目印のようにはためいている。少女に別れを告げると、路地の突き当りにある、三階建てのアパートへと向かった。門の脇には、傾いだ一本足の表札が立っていて、こう書いてある。「アパートメント 郷」


 それまで遠くからでも、ユモレスクを弾いていることが、はっきりとわかったそのヴァイオリンの音は、わたしが階段のてすりに手をかけた途端、フランクのヴァイオリンソナタへと変わった。なんだか、タシュナーの弾き方に似ていた。力づよく、粘っこい、まるで紫煙にまかれたような。階段のうえから、男の子が駆け足で降りてきた。片手に持った、タンバリンが、しゃりんしゃりんと鳴っている。さっきの子の弟だ。わたしは、階段の端によって、道をあけて、こうきいた。
「姉さんのところにいくのかい?」
男の子は、一瞬立ち止まり、口をひょっとこみたいにすると、ふっと息を吐いて、一直線に揃った自分の前髪をもちあげてから、やぶにらみにわたしを見て、去っていった。再びてすりに手をかけて、わたしは階段をのぼった。それからこう思った。フランクのヴァイオリンソナタは、やはりピアノがないと寂しいと。そこで曲は、今度はバッハのシャコンヌへと切り替わった。

 ようやく三階へ辿り着くと、右手に三つ並んだ扉を、ひとつずつ開けていった。一つ目は、空っぽだった。そして、二つ目を開けると、一匹の白猫が飛び出して、走り去っていった。今日は三番目か。そう思ってドアノブに手をかけて、わたしは扉を引いた。すると、部屋の一番奥で、暗闇にまぎれうっすらと、そのヴァイオリニストの姿が見えた。彼は、窓辺においた椅子に腰かけて、楽譜も見ずに、目を閉じて、弓を引いていた。わたしが入ってきたのにも、気づいていない様子だった。
 後ろ手に扉を閉めて、玄関で靴を脱いでそろえると、すぐそばのキッチンにある椅子へと腰かけた。それから、ゆっくりとかばんを床へと置いた。シャコンヌは、いよいよ佳境へとさしかかっていた。その音色は、うすく引き延ばされて、まるで哀願するように、泣いていた。しかしその涙は、哀れみを誘う大人のそれではなく、純粋な子供の涙だった。窓辺の椅子の上では、振り子のように、ゆらゆらとその体が揺れて、弦に触れる弓の、衣擦れのような微かな音までもが、曲を彩っていた。果たしてその涙は、何のためか。弦の響きに、わたしは瞼を閉じた。すると、ゴシック様式の建築と、半円形のアーチ。堅牢な柱廊の間で、小さな男の子が、天井を見上げていた。少年は、そこに描かれたフラスコ画を見て、一粒の涙を流している。それも自分のためではなく、その美しさの永遠を願って。やがて、その涙を断ち切るように弓が一線引かれ、曲は終わった。



「通りで、大家さんに会ったよ。」

 彼の細い腕に、ゴムのバンドを巻きつけながら、わたしはそう言った。

「あのばあさん、なんか言ってましたか?」

「いや。」

「今日もわざわざ上がってきて、小言を言いやがったんです。いいかげん、窓を閉めろとかなんとか。なにをねぼけたことを。それにもともと、ここは父さんのアパートだったのに。」

 わたしは注射針の先端を見つめながら、かるく指で弾いた。それから白熱灯の下で、白く浮きでた彼の腕の静脈へと、ゆっくりと刺し込んだ。

「そろそろ本気で、入院を考えたほうがいいぞ。」

 そう言ってから針を抜き、ガーゼを当てると、じんわりと赤い染みが浮かんだ。その上から絆創膏を貼り、きつく押さえた。

「そうなると、あの兄弟はどうなるんです?」

「私に任せておきなさい。」

「どうせ、施設かなんかに入れるつもりでしょう。」

 その問いには答えずに、わたしはかばんの蓋をとじた。

「先生。そんなことしたって、あいつらはすぐにまた逃げ出しますよ。」

 それから彼は、労わるように腕をおさえながら、フローリングの床をじっと見つめていた。やがてわたしが立ち上がると同時に、こちらを仰ぎ見て、こう話しはじめた。

「先日、ティボーの自伝を読みました。」

 その青白い顔に浮かぶ、ふたつの鋭い眼光は、先ほどの演奏のように、どこか哀願するような輝きを帯びていた。

「『ヴァイオリンは語る』って本です。先生、おれは決して、ティボーのようにはなれないでしょう。それほどの実力もないし、ましてや時間もありません。ただ、彼の兄のイポリートにならなれるかもしれません。死の間際まで、純粋にその身を音楽に捧げた。つまり、おれが言いたいのは、ここを離れるつもりはないってことです。おれはこの、小さな箱庭を、手放したくはないんですよ。」

 その背後からは、冷たい北風が舞い込んで、白いレースのカーテンを、たよりなく揺らしていた。






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