罪と罰 感想

ドストエフスキーの長編小説。めちゃめちゃ面白かった。個人的に好きな場面をいくつか抜粋してまとめた。※ネタバレあり

・あらすじ

一つの微細な罪悪は百の善行に償われる、一部の特別な人間にはそれが許される、おれはその特別な人間だ、という理論で、貧乏な元大学生のラスコーリニコフは高利貸し老婆を斧で殺す。そこに居合わせた全然悪くない老婆の妹も斧で殺してしまう。ラスコーリニコフはその罪の意識や犯罪がバレてしまう不安などに苦しまされるのであった……。

・好きなシーン

①自問しまくるラスコーリニコフ

"こうして彼は自分を苦しめ、このように問いつめることによって、一種の快感をさえ感じながら、自分をからかった。しかし、こうした自問はどれも新しいものでも、突然のものでもなく、もうまえからの古い病みつきのものだった。もういつからかそれらが彼をさいなみはじめて、彼の心をずたずたに引き裂いてしまっていた。このいまのふさぎの虫が彼の身内に生れたのは遠い昔のことで、それが成長し、つもりつもって、それが近頃ではすっかり大きくなって、こりかたまり、おそろしい、奇怪な化け物のような疑問の形をとり、執拗に解決をせまりながら、彼の心と頭をへとへとに疲れさせたのである。"(ドストエフスキー、『罪と罰 上』新潮文庫、1987、P80~81)

登場人物が実際に発言している部分はカギカッコ「」が使われるがそれとは別に、思考する部分は《》が使われているのがこの小説の特徴。中でもラスコーリニコフはこの思考部分が非常に多い印象。めちゃくちゃ自問自答を繰り返すのだ。ラスコーリニコフの自意識・俯瞰性が端的に説明されている。自問自答のその異常な数。こんなに考え事ばかりしてたら疲れちゃうよ。なんて思いながら読んでいたが、そういえばおれも人と話すときとかはいちいち「どう返すのが正解だ?こう返したら相手はどう思うかな?いやな気持にさせてしまったらどうしよう?」と自問自答しているなと気付かされた。人と会って話をするといつも疲労感をおぼえるが、なんでだろうとは今まで考えたこともなかった。いちいち執拗なまでに答えを求めてしまうからなんだろうな。

②vsピョートル・ペトローヴィチ・ルージン

ルージンは、ラスコーリニコフの妹ドゥーニャの婚約者である。母からの手紙でルージンという男と妹が婚約することを知る。たいそう善良な方らしい、ということは伝わったが、ラスコーリニコフは疑う。妹は本当に愛しているのか?お金で釣られてるんじゃないかと。
そして実際に対面する。

・ルージンの知識ひけらかしシーン

"まず自分一人を愛せよ、なぜなら世の中のすべてはその基礎を個人の利害に置いているからである、と。自分一人を愛すれば、自分の問題もしかるべく処理することができるし、上衣もさかずにすむでしょう。経済学の真理は更に次のように付け加えています、社会に安定した個人の事業と、いわゆる完全な上衣が多ければ多いほど、ますます社会の基盤は強固になり、従って公共事業もますます多く設立されることになる、とね。”(ドストエフスキー、『罪と罰 上』新潮文庫、1987、P257)

このルージンの主張に対して、同席していたラズミーヒン(ラスコーリニコフの友人)がこう反論する。

”あなたは、むろん、急いで自分の知識のほどをひけらかそうとしたんだろうが、それはまあ大目に見てしかるべきことで、ぼくもとがめ立てたりはしない。ただぼくがいま知りたかったのは、あなたが何者かということだけですよ、だってこの頃は公共事業にいろんな事業家どもがごそごそはいりこんで、関係したものをことごとく自分の利益のために歪めたので、何もかもすっかりだめにされてしまったんですね。まあいい、よしましょうや!”(ドストエフスキー、『罪と罰 上』新潮文庫、1987、P258)

この理論を突き詰めていくと、人を殺してもかまわんということになるとラスコーリニコフは付け加える。そして、婚約した相手が貧しいということが何よりも嬉しいことを言い当てられる。
このシーン好きだな、思わずぷぷっと笑ってしまう。だせえぞルージン!笑
こういう薄っぺらい知識ひけらかしてくる承認欲求の塊みたいな奴が貶められるのって、見てて気持ちいい。爽快な気分になれる。いつの時代にもこういう奴いるんだな。最近だと、「教養」と名の付く本を2~3冊読み漁ってそこで得た薄っぺらい知識ひけらかす奴。こういう奴のこと今度から「ルージン」って呼ぼうと思う。

合理的経済人とかトリクルダウンとかそういう類の経済学の一般論、もうそういうのいいわ。自分のために金儲けすることで隣人も潤うなんてことは現代では……。格差は広がるばかりな気がする。「人を殺してもかまわん」というのは暴論だと思うが、過剰な利潤の追求は実際に貧しい人たちの生活を追い込む。最近、NHK100分de名著「資本論」でアボカドの過剰生産がチリの人々の生活用水を奪っているという話を聞いた。知らなかったなー。現代は、不可視化されているだけですでに人殺しは始まってると考えてもいいのかもしれんなと思った。

③ラスコーリニコフの犯罪論 凡人と非凡人

ラスコーリニコフが考える犯罪についてをかつて書いた論文を掘り下げながら語るシーン。彼によると、人間は凡人と非凡人に大別される。凡人は生殖者であり、既存の法律に従順で服従することが当たり前の「現在の支配者」。非凡人は破壊者であり、既存の法律をおかす「未来の支配者」。この非凡人は、良心によって血をふみこえる許可を自分に与える。百の善行のためという目的を持って世界を動かそうというなら、一つの悪業は許されるという理論を展開する。ナポレオンがその最たる例。ラスコーリニコフは自分をナポレオンだと思い、高利貸し老婆殺害を実行する。だが、ラスコーリニコフはナポレオンじゃなかった。なぜなら、全然平気で踏み越えられなかったから。良心の呵責に苦しまされた。これはラスコーリニコフという非凡人かぶれの凡人が受ける罰である。
この部分、ぞくぞくする。「良心の呵責」に、「自分は天才じゃない」という事実がまさにその苦しみによって明らかになり、それにまた苦しむという追い込まれ方。つらいなあ。この後の道をスヴィドリガイロフという男との対比によって描かれていくのもおもしろい。

④ラスコーリニコフVSポルフィーリイ

一番の見どころだと思う。高利貸し老婆殺人事件を追っかけ、犯人のラスコーリニコフを証拠なしで追い込んでいく。この対決は本当に面白い。心理戦は何回かに分けて行われる。
ポルフィーリイとのやり取りの中でいくつもの疑問が頭に浮かぶ。「なぜラスコーリニコフの犯罪論の論文を持ち出してくた?」「この男はラスコーリニコフを疑っているのか?」「それともただの馬鹿な男なのか?」「いやひょっとしてとぼけてるふりしてるのか?」「だとしたら何のために?」「何かつかんでるんじゃないか?」「だとしたらどこまで知ってるんだ?」「本当は物証もあって真相をすべて知ってるんじゃないのか?」「そのうえで楽しんでるのか?」最初に登場した時は、本当にどっちなのかわからなくてぞくぞくした。めちゃめちゃにおわせてくるじゃん、あ~こいつなんなんだ!モヤモヤする~!っていう感じ。かと思えば、次会ったときはすらすらと自分の手の内を明かしていく。これがまた迷わせるんだよな笑 「なんで手の内を明かす?」「この裏には何か隠されているんじゃないか?」「何がしたいんだ?」
ポルフィーリイの打ち明け話の中でも特に印象に残ってるのは、彼が疑わしい奴から物証を得る常套手段の話だ。

”まあ仮に、わたしがある男を勝手に泳がせておくとしましょう。拘束もしないし、邪魔もしません。が、その男にそれこそ四六時中、わたしがいっさいの秘密を知っていて、夜も昼もたえず尾行し、監視の目を光らせていると、知らせるか、あるいは少なくとも疑惑をもたせるようにしむけるわけです。つまり意識的にたえずわたしに狙われているという疑惑と恐怖の下においておくわけです、すると頭がくらくらになって、ほんとですよ、向うからひっかかってきたり、それこそ二たす二は四みたいにな何かをやらかして、はっきりした物証をのこしてくれたりするものです。"(ドストエフスキー、『罪と罰 下』新潮文庫、1987、P135)

うわ、すげえ。え、てかこれまさに今のラスコーリニコフの状況そのものじゃん。てことはやっぱこいつ、疑ってるの?だとしたら疑ってる相手になんでこんな自分の手の内を明かすの?
こんな具合でもうぞくぞくが止まらない。早く早くとページをめくる手が止まらない。この心理戦おもしろい!
この次会うときはラスコーリニコフに「自首」か「死」かの道を提示し、自首をすすめる。ポルフィーリイ、ラスコーリニコフのこと気に入ってるんだな。ポルフィーリイ自身ももしかしてこの心理戦を楽しんでた?ラスコーリニコフに死んでほしくないという気持ちは本当だろう。

・まとめ

他にも好きな場面がたくさんある。カテリーナが狂い倒すところ、ロージャがルージンの手紙を読んでその圧倒的的分析力を見せつけて妹を説き伏せるところ、最愛の母に別れを告げるところ(泣いた)、ソーニャを「馬鹿な狂信者だ」と確信した上で「ラザロの復活」を彼女に読ませるところ、シベリアの河岸でソーニャへの愛に目覚め幸福を感じるところ(美しくて好き)など……。登場人物もそれぞれが個性的なキャラでわくわくする。登場人物がどういう人なのかを客観的な視点と主観的な視点から描いていく。たとえばカテリーナのことを語る人物が何人か出てくる。マルメラードフから聞く話、ソーニャから聞く話、本人の主観。すべて聞いたとき「ああ、そういう人なんだ」ってわかる(あるいは、わかった気になる)。ルージンという男の醜悪さは、プリヘーリヤとドゥーニャだけでは見抜けなかっただろう。そこにラスコーリニコフやラズミーヒンの視点も加わったことで明らかになった。ソーニャのポケットに入った100ルーブル紙幣の真相は、レベジャートニコフの視点が加わったことで明らかになり、そしてそれがルージンの人物像をくっきりと浮き彫りにした。その人がどんな人かって当たり前のことかもしれないけど、一つの視点からじゃほとんどわからないんだな。おれたち読者はラスコーリニコフの主観を覗くことができたが、客観的にしか見れなかったとしたら彼はどう見えるだろうか。ポルフィーリイのようにあそこまでラスコーリニコフに近づくことができるだろうか。人を見る分析力が試される読書体験になってとても楽しかった!
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