Twitterを「公開」にした話


(「X」や「ポスト」のことを現在も「Twitter」「ツイート」と呼ぶタイプの人間です。どうか悪しからず。)


先日、
Twitterで自身の非公開アカウント(所謂「鍵アカ」ってやつ)のツイートを一から全て読み返し、数件を除いた残りの数百件のツイートをすべて削除した。

元々「リセット症候群」の気質があり、自分にとっては決して珍しいことではないが、
削除の理由として、ひとこと多かったり、もっと別の言い方や表現があったのでは?と感じるものが多く、恥ずかしさと反省から気が付いたら大半をなかったことにしていた。


元はといえば、人に勧められてなんとなく作成したアカウントだった。
昔からSNSを頻繁に更新する習慣がなく、さらには重度の気にしいだが、そんな自分でも非公開なら気兼ねなくつぶやけるのではないかと。


結果的に、更新率が多少上がったり今までわざわざ発信しなかったようなことも時々更新するようになった。


ただ、それが自分には合っていなかったような気がする。


いろいろと考えてみて、
ある程度の"みられる意識"が自分には必要かもしれないと感じた。

書きにくいことや書けないことも含めて自分らしさであり、書けないことは書かなくていいことだったりする。


自身の場合、負の感情を文字に書き起こすことでより鮮明に長く記憶に留まるから、SNSを捌け口として使うことは向かない気がした。
そしてそれがいつしか癖になり、どんどん嫌な人間になってる感じがした。

他のだれでもなく、自分自身がそう思ったことが嫌だった。


定期的に過去の更新を見返す癖がある自分には、
「捌け口としての活用」よりも、おいしかったごはんやお菓子の写真をアップするような「事実行動」や、素敵だと感じたものを素敵だとつぶやく「振り返っても後悔しづらいプラスの感情」を発信する方が向いてることに気が付いた。

ひたすらいいことばかりを記すアカウントも、それはそれでアリなんじゃないかな〜って。
例えそれが綺麗事として捉われたとしても。

あわよくば、自分の考えや想いがちゃんとした形でだれかに伝わればメチャメチャに嬉しい。
(おこがましいからこれはただの後付けってことで)


今の世の中だと、
インターネット上でしか知らない人はそこでの姿しか知らなくて、
それがその人のすべてではないとわかっていながらも(記憶や判断基準としては)それがすべてになりがちで、
だとしたら自分の場合は知らない人にわざわざマイナスな面をみせなくていいかなって。

いい顔したいっていうよりも、今の時代なんでもないようなこともすぐに火がついて燃え上がるから単純にコワイ。
きっと、これが純粋に本心。

逆に、対面で見知った人でもSNSの使い方一つで「おや?」となることあるもんね。


現実世界では、見たくないものや関わりたくないもの、自分が欲してない様々なものと嫌でも共存していかなくちゃいけない。

だから、せめて、
SNSの中だけは自分の好きなもので埋め尽くす。

合わないものを片っ端からミュートワードに設定するもよし。
少しでも心がザワついたらブロックするもよし。
とにかく自分で自分のために自分だけが心地いいと感じる空間をつくる。
それに徹する。
(ただ、そこだけが全世界だと思わないようにはする。)


知らない人からのいいねに警戒する必要はないし(本当に警戒すべきはブックマークや非公開アカウントからのリストインだと個人的には思う)、非公開アカウントはフォロワーが存在してる時点で完全な非公開ではないし、おすすめはともかく話題のツイートやサーチ機能の影響で見知らぬ人の発信に干渉しすぎる。

「そういう人もいるのか〜ほへ〜」で見過ごせない質はSNSに向かない。

(すべてを向き不向きで判断するのは違うけど、自ら選んでやることの中でそもそもの素質として不向きな傾向にあるならそれなりの工夫は必要だと思う。)


すべてに間違いはなく、すべてに正解はない。
お互いの意見や価値観を尊重しあいながら、それはそれとして共存できる世界。

それには、見なかったことにしたり思ったことを無闇に発信しないことも時には必要かもしれない。


まあこれもすべては非公開アカウントを作成したからこそ気付いたことで、
向いてないとは感じたものの、それはそれで楽しく間違いなく意味のある期間だった。


そしてこれはあくまでもSNS上の話で、
現実では日々愚痴をこぼしたり、弱音を吐いたり、下ネタを言ったり、信じられないくらい何も考えずにものを言ってる気がする。
(これはこれで要反省)


というわけで、
Twitterは今後もゆる〜く更新していきます。


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