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55歳の挑戦


人生はリスクの連続


昔は何かを始めるときに、じっくり考えて準備をしたり、不安材料を見つけて躊躇ってしまう性格ではなかった。目標を見つければ即実行、後先考えず猪突猛進というタイプだった。

それなのに今、新しく挑戦しようと思っても一歩が踏み出せないでいる。
「人生はリスクの連続 やるリスクとやらないリスク」
ならば私はやるリスクを選びたい。
そう自分を奮い立たせてみても一歩が踏み出せないのは「家族」がいるからだ。

家族のために真面目に働いてくれている夫に申し訳ないな。
新しい挑戦で結果が出せなかったら冷たい言葉を浴びせられるのだろうな。そんなことが頭をよぎって一歩が踏み出せないでいるのだ。


二度の挑戦と失敗


私は今までに、夢を叶えようと一歩を踏み出したことが二度ある。
一度目は、女優を夢見た18歳の時。
大好きだった女優さんのもとで勉強がしたいと、思いの丈を手紙にしたため、付き人として迎え入れてもらった。
二度目は、二人の子供が大きくなり少し時間に余裕ができた46歳の時。
カフェ好きな私が、思い描く空間を作りたいと、カフェ経営を始めた。

一歩を踏み出し進んだ先には自分の思い描く世界が広がっていると本気で思っていたあの頃の私にとって「挑戦」とは
「困難な物事に意気込んで立ち向かう」という本来の意味ではなく
「手を伸ばせば届くものを取りに行く」といった気軽なものだった。
失敗なんて考えもしなかった。全力で挑む熱い思いと柔軟な発想力さえあれば乗り越えられない壁はない、と軽く考えていたのだ。

だけど、熱い思いと勢いだけで挑んだ挑戦は結果を出せず、一度目は3年間、二度目は6年間で夢を追うことを断念した。
この経験で、自分の考えの甘さを思い知り「挑戦」の本来の意味を身を以て理解することとなった。

浅はかな私に対する周囲の評価は冷ややかで、投げかけられる辛辣な言葉にすっかり自信を無くしてしまった。
もう何も夢見ない。どうせ叶わないから。
何も望まずにいよう。家族に迷惑をかけるだけだから。
そうやって今まで過ごしてきた。

夢に向かって頑張っている子供たちの姿に羨望し
生き生きと輝いている同年代の女性に憧れと嫉妬を感じ
何もできない自分に焦りと無力感を抱いた。
そうやって55歳まで過ごしてきた。
刺激のない単調な毎日に
「もう一度何かに挑戦したい」という気持ちが湧くこともあったが、
「家族に何て言われるか」「今更」「私には無理」と諦めてきた。



三度目の挑戦


でも、やっぱり
自分の人生思いっきり楽しみたい。精一杯生きたい。
自分で自分が誇らしく思えるほど全力で頑張りたい。
だから
三度目の一歩を踏み出そうと思う。

私は脚本家になりたい。
私の描く世界に救われたと言ってもらえるような脚本家になりたい。


二度の失敗で、周りからの忠告や辛辣な言葉に抗うほどの強さは無くなってしまったし、家族に迷惑をかけてまで踏み出すほどの覚悟も無い。
だけど二度の挑戦から学んだことは書ききれないほどある。
一歩踏み出した先の世界は自分次第で何色にも変化することを学んだ。
自分が想像しているゴールは必ずしも最適であるとは限らない、全力で挑む者にはゴールが最適な形に姿を変えて近づいてくることも学んだ。

ならば三度目の挑戦は家族に迷惑をかけない形で全力で挑めばいい。
今の仕事を辞めなくても、パートなので時間はいくらでも作り出せる。
その気になれば自己研鑽の方法はいくらでも見つけられる。
欲を言えば映画は映画館で観たいけれども時間に余裕がないのならばパソコン一つあれば観ることもできる。実際に色んな事を体験したり色んな人と関わりをもつのが理想だけれども、お小遣いの範囲を超えるようであれば、ネットを駆使して様々な世界を覗けばいい。SNSを使って自分の作品を公開したりコンテストに応募したり、いくらだって挑戦できる。

新しい一歩を踏み出すというには、中途半端で覚悟の足りない挑戦なのかもしれない。でも私にとって、三度目の挑戦を躊躇させてきた「家族のしがらみ」の中でも、お互いに思いやりながら暮らしていきたいという思いは強く、その関係性を壊さないまま自分の人生を精一杯生きたいと思ったときに、この挑戦は心躍るものだ。
私にとって「55歳の一歩を踏み出す」とはこういうことなのかもしれない。
一歩を踏み出した先に見える世界は今、キラキラと輝いている。


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