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失恋ソングを聴かなくなり、彼と仲良くなった話

全然関係ないところから、ひらめきが生まれたり、解決策がひょこっと出てきたりすることって、ありますよね。

今回の記事は、ある書籍の一節に気付きを得て、救われた話。たぶん筆者の方もまったく意図しない形で。

わりと最近起きた、未熟なわたしの赤面するような恋愛話です。

2500字近くある長文・駄文ですので、暇つぶしにどうぞ!(いつもより真面目モードです)



「外飲みが気持ちいい季節だし、川沿いの公園で飲みません?」

ある日、わたしは恋人に宛ててLINEを送った。
内心では『話があるので』とつけ足しながら。

外飲みに誘ったのは、作戦だ。

彼に、ある考えを伝えたかった。でもそれは別に、大それた考えではなく、多くの人がきっと高校生や大学生のときに悟るようなこと。恥ずかしいので、明るいところで正面から向かい合って話すのはいやだった。

それで夜の公園のベンチ、互いの顔をあまり見ずに、並んで話すくらいがちょうどいいと思ったのだ。

コンビニで合流し、缶ビール2本ずつと軽いおつまみ、そしてわたしは誘惑に負けてスイカバーを買う。ビールには絶対合わないけれど、好きなんです、夏っぽくて。

暑くもなく寒くもない、夜の公園。右手にビール、左手にスイカバーを持ってベンチに座るわたしの隣で、彼はスナック菓子の「暴君ハバネロ」を、器用に箸でパクパク食べている。

彼は靴を脱いであぐら。くつろぎすぎ


しばらくたわいもない話をしたあと、わたしは切り出した。
「あのね、最近読んだ本の中に、こんな一節が出てきたんだ」
事前に保存しておいた、電子書籍のスクリーンショットを彼に見せる。

自分自身とその周囲に広がる世界を解釈し味わうためには、ストーリーがあったほうがよいのでしょう。そのほうが幸福だったり、自分が安定して生きやすかったりしますから。でも、ストーリーが一面的なものの見方によって成り立っていることを忘れたときに、私たちはストーリーに支配されます。そして、自分自身に、または他者に、攻撃を仕掛けるようになります。

『おやときどきこども』(鳥羽和久)


「この『ストーリーに支配された人』って、まさにわたしのことだなって。今までたくさん攻撃してきて、ごめんなさい」

そこからわたしは彼に、最近の自分の心の動きを、順を追って話し始めた。いつもふざけてちゃちゃを入れる彼も、これは真面目な話だと察したらしく、うんうんと静かに聞いている。

少し前まで、時おり悲しい気持ちに襲われていたこと。些細なことから「大事にされてないんじゃないか?」と不安に思っていたこと。

例えば、約束をドタキャンされただけで、「彼にとってわたしは優先順位の低い女なんだ…」と落ち込んだ。彼が冗談で「今から女の子ナンパしてくるね!」とLINEを送ってくれば、「こんなふうに彼女を不安にさせる彼と、このまま付き合っていて良いのだろうか?」と深刻に捉えた。友達に彼のことを話して「それはひどいね!」と言われれば、やっぱりひどい男なんだとすぐ影響された。

マイナス思考が止まらず、夜中に涙が出てしまうこともあったし、彼に長文のLINEで不安をぶつけたこともある。

(こうやって書くのも、うわぁ恥ずかしい。30歳のすることではないですね、本当に。メンをヘラってます)

でも、先ほど紹介した本の一節を読んで、思ったのだ。
 

「わたしってば、悲しいストーリーを作り上げて、それに酔って、悲劇のヒロインを演じてるだけなんじゃね?」と。

 
悲しいストーリーに支配され、自分を攻撃するから、涙が出てくる。
彼を攻撃したくなるから、「もっと大事にしてよ!」と不満が募る。

このことに気付いてから、心の持ちようを意識的に変えることにした。ふとマイナス思考に陥りそうなときには、

「いっけなァ〜い! まいこったら、また悲しいストーリーを作ってるZO☆」


と、セルフツッコミするようになったのだ。

すると、ア〜ラ不思議。深刻に思えた出来事も、何でもないようなことに思えてくる。「自分の作ったストーリーじゃなくて、事実を見よう!」と決めたとたん、彼に対して悩むことが驚くほど無くなった。

そうした気付き、恥ずかしい自分語りを、彼はじっくりと聞いてくれた。そこから話が広がり、気付けばあっという間に3時間が経過。

虫に刺されるのでいい加減に帰ろうとなったが、我々は3時間の意見交換で「『されなかったこと』より『してもらったこと』に目を向けよう」とか「『わたしは』ではなく『わたしたちは』という主語で2人の関係を考えていこう」とか、いくつかの約束事を交わした。

この日以来、彼とは前よりも仲良くなれたと感じている。わたし自身がマイナス思考を克服して、仕事や趣味に打ち込めるようになり、お互いほど良く自立した関係を作れるようになった。余裕ができたからか、「大事にされているなぁ」と感じる機会も増えた。

また、日頃の生活で変わったことがある。以前よりも、失恋ソングを聴かなくなったのだ。

わたしはもともと、失恋ソングが大好きだった。

平和な両思いソングより、苦しみから生まれた失恋ソング、片思いソングのほうが名曲が多いという持論があった。歌詞に感情移入しながら、曲の主人公になり切って「可哀想なわたし」に浸る。そのために年がら年中、失恋ソングを聴いていた。

でも最近は、歌詞に対して「これはフラれたAくんの作り上げたストーリーであって、実際Bちゃんは全然違う考えかもしれないよなぁ」と思うようになった。しらけた現実主義者になってしまったようで寂しいが、曲に入り込めなくなったのだから仕方ない。

そうして自然と、あまり失恋ソングを聴かなくなった。

ただ、離れてみて分かった。あまりにも聴きすぎて、多少は洗脳されていたかも、と。繰り返し聴いた数々の失恋ソングから、悲しいストーリー作りを学んでいたのだ。もちろん音楽に罪はないが、やはり適量を守ることが大事なのだろう。

ちなみに、今回大きな気付きを与えてくださった鳥羽和久さんの『おやときどきこども』という本は、学習塾を主宰する教育者・鳥羽さんの目線で見た、子どもとその親たちのエピソード集です。わたしは単純に鳥羽さんの文章が好きで(無駄が削ぎ落とされて平易な日本語なのに内容の濃さがハンパない)、子どものいる親でもないのに夢中になって読みました。

まさか筆者の鳥羽さんも、自分の本が恋愛指南書のように役立てられたなんて、思いもよらないだろうなぁ。

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