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【短編小説】性根が腐っている

 諸君は、性根の腐った臭いを知っているだろうか。性根というものは大抵各々の身体の内部にそっと置いてあるような代物なので、例え腐っていても臭いが外部に漏れ出るということはあまりない。しかし私の友人であるNは、その臭いに敏感であった。私たちは大学に入学してしばらくした後、ちょっとした切っ掛けで友好を深めることとなった。
 会う度にNは「今日も性根の腐った臭いがする」とげんなりした顔で言うものだから、私は彼の敏感な感性を哀れに思った。私は元々鼻が悪く、この時期はイネ科の花粉が猛威を振るうこともあって香りがどうとか以前の問題だった。Nは私をよく羨んでいた。
 私は彼と喫茶店に入った。珈琲の香りは私たち二人には届かなかった。私はプリビナを鼻に噴霧しようとしたが、Nに止められた。
「ここはダメだ、珈琲よりも性根の腐った臭いが強いから」
 しかし私たちは疲れていた。先刻まで街を歩き回っていたのもあって、そろそろ休憩がしたかった。私たちが席についてそれぞれ目当ての飲み物を注文した頃、客の何人かもNと同じだったらしい。いよいよ性根の腐った臭いに耐えられなくなったかのようにして店を飛びだして行った。
 私たちは他愛も無い話に花を咲かせた。Nは時折こちらをドキリとさせる物言いをする。それはときめきの類いではなく、悪意に近づいたときの、あのヒヤリとした感触に近しい。私はかろうじて僅かな苦味だけを主張するコーヒーを胃に入れながら、Nの言葉に笑顔を見せた。
 ふと、私は性根の腐った臭いというものが気になった。紳士的な老人も、今流行の格好をした若い女性も、耐えられないと言った風にして席を立っていくその様に私は興味を覚えたのだ。私はNに、性根の腐った臭いについて聞いてみたが、Nは知らない方がいいよ、と言って笑っていた。そこに妙な優越感があったのが気になった。

 季節が移ろうとき、私の鼻の調子は幾許かよくなる。
 珈琲を珈琲と判別できるだけの能力を身につけたとき、冬の風に混ざってなんとも言えない酸えた臭いを覚えた。偶然近くに居たNに聞くと「それ、性根の腐った臭いだよ」と言った。
 嫌な臭いだろ、と言って迷惑そうに笑うNに、私はとりあえず頷いておいた。Nは「お互い頑張ろうな」と言ってバイトへ向かった。私は必修の講義を受けるために教室に残った。Nの分も出席簿にチェックを入れるという仕事もあるからだ。
 Nが居なくなったタイミングで、近くに座っていた同期が振り向いて私に話しかけてきた。私は彼との心地よい対話を楽しみ、教授が教室に入ってくるのを待っていた。しかし教授は待てど暮らせどやって来ない。まれにあることなので私たちは特に気に留めなかった。
「そういえば、よくNと仲良くしてられるよな」
 私の善き対話相手は不意にそんなことを言い出した。
 何故そのようなことを言うのか私は反射的に問いかけた。彼は洋画の脇役がそうするようにして、やや大袈裟に肩をすくめて見せた。
「だってさ、あいつ人の悪口ばっかり言うし、すぐに他人を利用しようとするだろ。俺はあいつと同じ高校だったんだけどさ、ほんと気をつけたほうがいいぞ」
 彼は教室の入口をチラリと見やった。教授の姿はまだ見えない。その動きに合わせて、爽やかなシトラスの香りがした。私はそれを男物の香水かと思ったのだが、どうやら違ったようである。
「おまえ、すごくイイヤツだから。あんな性根の腐ったヤツ・・・・・・・・に利用されるの忍びなくて」
 私は何も言えなかった。しびれを切らした何人かが席を立つ頃になって、教授の研究室に所属しているらしい生徒がやって来て「あと十数分で来ます!」と叫んだ。
 Nの言う腐臭は彼の内部からきているのではないか、という疑念を私は既に持っていた。彼の物言いに傷ついたこともあれば、疑問を呈したこともある。一を言えば百を返す彼とどうしてつるみ続けていたのかは今となってはよく分からないが、強いて言うなら私はわりと損をするタイプの人間だった。
 ふと、私はなんとなく良いことをしたくなって、唐突に彼の香水を褒めた。すると彼は少し驚いた顔をして、わざとらしく首を傾げた。後になって聞いたのだが、彼はこの時古い洋画にハマっていたらしかった。
 私はどうすればよいのか分からなくなって少し視線を下げた。机の落書きが目に入った。何と書いてあるかは読めなかった。
「ああ、分かった」
 合点がいったらしい彼は、やはり洋画の俳優のような仕草を添えて告げる。
「それ、多分おまえの性根の匂いだよ」
 私と彼は、同時に鼻をすんと鳴らした。

気の利いたことを書けるとよいのですが何も思いつきません!(頂いたサポートは創作関係のものに活用したいなと思っています)