「諦めろ」の裏のやさしさ

 画家のゴッホと、その弟を描いた小説を読んでいる。弟は、革新的な兄の絵が世間に認められるはずだと希望を持ちながらも、幾度となく打ちのめされる。その苦悩がなんとも切なく、胸を締め付けるので、諦めてしまえば楽であろうと小説の中の彼に語り掛けたくなる。どこかで目にした兄のゴッホについての記述には、「報われることはなかった」とあった。それを知識として持っていたものの、「報われなかった」人生には何千回もの「信じたい」と、それと同じだけの「もう信じられない」が繰り返されていたこと実感すると、どうか幸せになってほしいと願わずにはいられない。

 今日、食卓で池江璃花子さんのドキュメンタリーを見ながら父が、「体育の先生になったりするのかな。」とつぶやいた。目標を改め夢を信じる彼女の姿に、それでもトップ選手には戻れないだろうという予想を述べたのだ。
今日の竜田揚げはすごくおいしかったのだが、その瞬間薄雲がかかったような気持ちになり味覚が鈍ってしまった。彼女もまた「信じたい」と「もう信じられない」の繰り返しの中でもがいている人のひとりだろう。そんな彼女になんて後ろ向きなことを言うのだろう。冷酷だ。

 しかし、小説の中のゴッホの弟に諦めることを勧めたくなる私の気持ちはどうだったろう。冷酷な気持ちで言っているのではなく、むしろ彼を思いやるが故に生まれる気持ちのように思える。もしかしたら、「無理だ」「諦めろ」の裏には、やさしさがあるのかもしれない。希望と絶望の繰り返しの日々が苦しいことをわかっているからこそ、そう言うのだ。(主に父から発せられる)後ろ向きな言葉は、私自信の夢を信じたい気持ちを何度も削いで、そのたびに苦々しい気持ちになってきた。でも、そこに込められたやさしさに耳を傾けたら、そんな言葉すら夢を信じるための推進力に変えられるかもしれない。

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