グルジアはすでにジョージアだった 【ソ連最後の夏⑦】
ソ連の旅は、中央アジアから今度はグルジア共和国に飛びます。ソ連の「連邦」という土台がいよいよ怪しくなったのが、ここグルジアから。民族のいきおいが増すグルジア共和国の首都、トビリシを訪れました。
Welcome to Georgia!
空港の税関をくぐると「ジョージアへようこそ!」と英語の横断幕が出迎えてくれました。ジョージア?アメリカのジョージア州?とクビをひねったんでした。当時は冷戦で、ソ連はアメリカやイギリスなど「西側」諸国とガチガチに対立していた訳で、英語でお迎えなんて考えられませんでした。
今から思えば、1991年の段階で「ロシア語読みのグルジアでなく英語のジョージアと呼んで」とアピールしていたんでした。建物のてっぺんには、独立の旗。空港のお姉さんに聞くとオチャメに「アメリカの旗よ」ですって。
日本では2015年に、先方の要請によってジョージアに呼称が変わりました。正式な国名は、サカルトベロです。
1991年のグルジア
ここで少し、当時のグルジア情勢を。
1990年にソ連からの独立を宣言、共産党支配をひっくり返し、1991年に民族主義者のガムサフルディアが初代大統領に就任しました。ソ連からの自由を唱える一方、反対意見を許さず、少数民族のアブハズ人を弾圧するなど、「独裁」の一面もありました。
トビリシの市内では、グルジア人による「共和国防衛隊」が隊列を組んで闊歩するのを見かけました。ホテルの前には連邦軍の駐屯所があって、私たちの前でケンカはやめてね、とビクビクしました。
聖なる山で現地の人に話を聞いた
「聖なる山」ムタツミンダ山にケーブルカーでのぼりました。展望台から赤い屋根が連なる街が一望できます。とても静か。街中の車の音がかすかに聞こえます。カラッと晴れて、気持ちがのびのびしました。
現地ガイドさんに通訳のターニャさんを通じていろいろ聞いてみました。
ここの暮らしぶりはいかがですか?
「食料は豊富だけど、ほかの品物は不足しています」
シュワルナゼ(ゴルバチョフの右腕・ソ連の外相)がグルジア共和国の党第一書記の頃、経済改革改革を行いましたね(1972~1985)。その頃はどうでしたか?
「今よりはマシでした。だけどそんなに良かったとは思えませんね」
経済学者の評価は高いのですが。
「たぶん、結果を水増しして発表したのでしょう(苦笑)」
ガムサフルディア大統領の政治はいかがですか?
「(にこにこ笑って)さぁ。独立はしたいけれど問題は経済です。お金がなくては、やっていけないでしょう。グルジアの通貨を作れるほど豊かじゃないですからね」
現在の教育はどうなっているのですか?
「全ての科目はグルジア語で教えています。ロシア語は外国語として学習しています」
この方は、ロシア語とロシア文学を専攻しているせいか、ガムサフルディアから一歩引いた感じでした。日本の印象は「人々が勤勉で経済状況の良い国」だそうで、海部俊樹首相の名前もフルネームで知っていました。
少々酔ったおじさんは激しかった
夕食の後、レストランの前で少し休んでいたら、おじさんが近寄って「グルジアはいい所だろう」と話しかけてきました。うなずくと、大喜びで握手を求められました。
「エスエスエスエル!(ソ連のこと)」と叫んで、手で叩きつぶす激しいジェスチャー。「ガムサフルディア!」万歳!なんだそうです。
ほんとグルジアは人が優しくて良いところでした。次回はグルジアの「美味しいもの」の話を書きます。おたのしみに!
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