“冬霞の巴里”目撃談

※ネタバレあります

いやー。凄まじいものを見た。
観劇したというより目撃した。

私は普段芝居を見るとき、登場人物の誰か一人に共感して物語に入り込むことが多い。
けれど今回は、たった一人真冬の巴里の街で、目の前で起きていることを覗き見ているような、そんな不思議な感覚になった。
そして、しっかり全部見届けたはずなのに、なぜかどんどん記憶が朧げになっていく。
つい数分前みたあの光景は真実だったのだろうか、もしかして私の思い込みや願望が見せた幻想?
こんなにも集中して観ているはずなのに。あれ、私、どこかで何か間違えた?何か見落とした?何か勘違いしていた?

舞台は生物なので、巻き戻して見ることは出来ない。芝居を観ているうちに、見落としたり勘違いすることは普段からしばしば起こることだが、
一つの勘違いにこんなにも惑わされる舞台は『冬霞』が初めてだ。

今私は『冬霞』をライブ配信で観劇した翌日にこれを書いていて、既に記憶は新鮮とは言えない状態だし、そもそも見落としている点が多いだろうから、間違った解釈や勘違いがあるのは承知だが、アウトプットしておかないと本当に記憶が霞の中に消えてしまいそうなので、今の私が『冬霞』を通して感じたことを記しておこうと思う。


 ①非宝塚的パリの、香り立つ不気味さと恐ろしさ、そして美しさ

宝塚でパリといえば、レビューの一場面で出てくるような、華やかで甘やかで、活気がありロマンチックな雰囲気だろう。
しかし、冬霞には残念ながらそのような素敵なパリはあまり登場しない。
レビューで出てくる人たちはみんな清潔なドレスやタキシードなんかを着ているが、おそらく、19世紀末のパリでそんな格好をできたのは少数派であろう。

冬霞では、貴族趣味な宝塚ではいないことにされがちな「そうじゃない人」たちが、比較的露骨に表現されている。
見るからに汚れて穴の空いた服を着て、頬はこけ、目は充血し、髪や髭は伸び放題。
そんな人たちがたくさん出てくる。

だからこそ、そんな中で華やかな装いをしたブルジョワたちの異質さが目立つ。
綺麗な格好をした少数の人々と、大多数の薄汚れた人々。まるで同じ国の住民とは思えない人々が同じ空間で共存している。
それがなんとも薄気味悪くて、貧富の差を第三者視点で見るとこのように気持ち悪いものなのかと驚いた。

時代背景を少しおさらいすると、『冬霞』の舞台は19世紀末のパリ。ベル・エポックという華やかな文化が花開いた時代で、私もこの時期の音楽や絵画が大好きだ。
しかし、その華やかさの裏では貧富の差が拡大し、汚職が蔓延った時代でもあるようで、薄暗い側面も持つ。
ベルエポックの音楽や絵画が、どことなく毒気を帯びているのはそのせいなのか、とにかくただただ良い時代、というわけではなかったらしい。

前述したように、冬霞ではその薄暗い方のパリを宝塚的には露骨に描いているので、美しいひとはより美しく見えるし、その美しさがまるで空虚な物に見えたりもして、その落差が鮮やかだった。観ているだけでなぜか背中がゾクっとして、だけれどなぜか目が離せず、どんどん惹き込まれてしまって、まるで夢の中を漂っているような感覚。思い出すだけで酔ってしまいそうだ。

②真実は無数だということ

ネタバレすると、オクターヴの実父オーギュストは、どうやらオクターヴ以外の登場人物から見るととんでもない悪人だったらしい。
オクターヴにとっては(正しくはオクターヴの記憶の中では)優しい父親だったのだが、それ以外の人たちにとっては「殺して正解だった」と言われてしまうほどの人間だった。これは、言葉にすると「多面性」の一言ではあるのだが、どんな悪人でも善人のように振る舞うことができるし、その愛によって生かされる人がいる、ということであり、裏を返せば、どんな善人とて悪事を働くことはある、ということだ。そして、その場合「この人は悪人だ」「この人は善人だ」というどちらの証言も嘘ではなく、真実である。

というより、真実というのは自分の解釈でしかなく、見えるもの、または見たいものだけを見て、それを真実と呼んでいるだけなのかも知れない。

結局のところ、オーギュストの罪というのは劇中ではあまり具体的に語られない。イネスの件も、具体的にどういう経緯で彼女が自死に追い込まれたかまでは謎に包まれている。(クロエは「あの人のせいで彼女は自殺した」と言っているけど、それもクロエにはそう見えているだけなのかも知れない)。

オクターヴ自身、パリに戻ってきてからさまざまなことを知り、自分が見ていたことだけが全てではないことを悟りつつも、あれほどこだわった復讐から解放されずにいる。

どこで間違ったのか。何がいけなかったのか。記憶はどんどん霞の中に消えていく。
何が真実なのか、誰も知らない。誰にもわからない。
そして、この不気味な世界は、どこか遠くのお話ではなく、他でもない私たちが今いるこの世界だ。

③勝手なアンブル分析と彼女の行く末

今回ものすごく印象に残っているシーンがある。悪い夢を見て怯えるオクターヴをアンブルが優しく抱きしめ、オクターヴはすぐに距離をとるというシーンだ。幼い頃から、オクターヴが怖い夢を見たときは優しく抱きしめて慰めていたアンブルは、大人になっても同じようにオクターヴに接するが、オクターヴは女性である姉をすぐ近くに感じ、逃げるように身じろぐのだ。

オクターヴとアンブルは互いに深く求め合って依存しあっている。
けれど、大人になって姉に女性を感じるようになったオクターヴに対して、アンブルはいつまでもオクターヴを男性ではなく弟として扱う。

これ、私は「アンブルにとってオクターヴは弟でしかない」ということではなく、「愛する人の前で女性になること」ができないのではないかと思っている。

アンブルは自分の美しさや女性としての性的魅力をわかっている。それを利用して復讐を達成しようとするくらいには逞しい女性だ。
しかし、自分の女の顔を一度そのように使ってしまうと、愛する人に同じ顔をしづらいのではないだろうか?

血が繋がっていない弟のオクターヴを幼い頃から深く愛し、姉として振る舞うことでしか彼に愛情を示せない。
女性として男性に愛情を振り撒くのは別の目的がある場合で、本当に愛している相手の前では女性になれない。

なんなら、目的遂行のために女を使っている自分のことをアンブル自身が愛せるはずもなく、自分の女性の顔そのものを軽蔑し嫌悪しているのではないのだろうか。

オクターヴは、確実にアンブルのことを女性として見ていて、姉弟ではなく男女の関係になれたらずっと一緒にいられると思っているようだが、アンブルはその逆だ。自分が女性になりきれないから、オクターヴを弟としてしか愛する術がない。

物語の最後の様子を見るに、オクターヴは姉のそんな歪んだ愛を感覚的にわかっているように思う。
姉が自分を弟としてしか扱わないのは、自分以外に愛する可能性がある男性がいるというわけではない。
だからこそ、「僕だけの姉さん」なのだと思う。


④最後に

深い霞に包まれたような今作、退廃的で毒気のある世界観が好きな私にはドンピシャに刺さる作品だった。
しかし。これは悲しいお話ではないと断言しておこう。
最後、終わりなきように思えた憎しみの連鎖を、断ち切る姿が見られる。

人によって憎しみが生まれるが、それを断ち切ることもできる。

希望に満ち溢れた物語だと思っている。
こんな不気味な世の中にも、愛があり、優しさがあるのだ。

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