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『帰らなかった日本兵』インドネシア独立戦争を共に戦った日本人③

のつづき

●悪魔隊長の到来


日差しが突き刺さる白昼の山道、木陰に隠れ息を潜める三十人ほどの部隊がいた。黒のイスラム帽に黒の軍服を身に纏い、インドネシア人で構成されたその独立軍の先頭に立つのは、右腕のない隊長、池上 成人(いけがみ なると)だ。

ここ中部ジャワにはスンビン山、シンドロ山の高山が連なる山岳地帯があり、その山腹に池上率いる独立軍は拠点を構えていた。
独立戦争時、都市部に限らず農村部でもゲリラ戦が繰り広げられており、この日も農村部への進撃を阻止するべく作戦が練られていた。
山岳地帯を進行するには、どうしても狭い山道を通らなければならないため、そこへ地中に埋めた爆薬を的中させるというわけだ。

山道に少しづつ戦車のエンジン音が近づいてきた。重機関銃で武装したオランダ軍が戦車を先頭に前進してくるのが視野に入り、緊張感がほとばしる。隊員は池上の合図を待っている。
「まだだ、まだだ」と、合間をはかり、池上は左手を挙げた。

若い隊員が、手作りの信菅がつけられたヒモを引っ張ると、爆発音とともに火柱が上がった。直撃だ。不意を突かれたオランダ軍は機関銃を乱射しながら後退する。負傷者がかなり出たはずだ。長居をすると反撃を喰らうだろう。もう一度池上の左手が挙がる。引き上げの合図だ。


『帰らなかった日本兵』の著者、奥源造氏は本の中でこう述べている。

池上にとってはじめての白昼戦が敵、味方双方にいっそう勇名をはせるきっかけとなった。オランダ軍から「悪魔隊長」と毛嫌いされ、首に多額の賞金がかけられた。暗殺部隊まで送り込まれた。

『帰らなかった日本兵』奥 源造

この物語は、日本兵がテマングンに石碑を築いた後、1945年の日本敗戦後の話だ。
三年半にわたるインドネシア独立戦争を、残留日本人としてインドネシアのために共に戦った日本人は多く存在している。その理由として、日本に帰っても戦犯として捕まるのではないか、日本への帰還中に船を沈められるのではないか、といった恐れから残留を決めた者もいるが、その一方で、現地で結婚し家族のために残った者、使命感から残った者も多くいた。

オランダは約3世紀にわたりインドネシアを植民地として占領していた歴史を持つ。その際に、現地民からの反乱を避けるために、軍事的教育や集団行動を禁止としていた。「戦う教育」を持たないインドネシア人が、どうやって独立戦争で勝利できようか。まず、日本兵が第二次世界大戦中に行ったのが、インドネシア兵の育成だ。日本式の軍事教育・演習を行い、自分たちで戦う力を身につけさせた。中部ジャワのテマングンにもインドネシア兵部隊が編成された。その指揮官はバンバン・スゲン隊長。その右腕となったのが池上成人である。

しかし、母国日本に帰国せず異国の独立のために命がけで戦う動機は?やはり、その答えはテマングンの丘の上にある友情の証、石碑が物語っているのではないだろうか。インドネシアと日本の友情は、確かに強く、今もそこに存在している。
先人の願いを受け継いだテマングンの人々に温かく受け入れられた私は、先人と同様にインドネシアの人々や文化に魅了された。渡されたバトンを持ち、これからもインドネシアの魅力について発信していくつもりである。

テマングンに陽は高く 空に冴え住む人ぞ またまどやかなり 
石碑よ とこしえに とこしえに 
燦として ジャワの地に 輝け

おわり

#この街が好き
#一度は行きたいあの場所
#インドネシア
#私の仕事

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