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『帰らなかった日本兵』インドネシア独立戦争を共に戦った日本人②


のつづき

●日本兵とインドネシア人

インドネシアの突き刺すような日差しは木々で覆い隠され、ジメッとした空気中を数匹のハグロトンボが地面スレスレを飛んでいる。
空気が変わった、そんな感覚だった。
ほんの5分ほどの坂道を進んだ先、そのモニュメントは小さな丘の上にあった。
そしてまず目に入ったのは激戦地を指差すバンバン・スゲン氏だ。

バンバン・スゲン氏

中部ジャワ・テマングン県出身。かつてのインドネシア国軍の参謀総長で、戦後は在日インドネシア大使も務めたこともある。

石碑にはこう記されている。

侵略者によって虐殺された多くの犠牲者がいた。彼らは勇敢であり、「一度独立すると常に自由になる」という一つの決意のために犠牲を払うことをいとわなかった。彼らの奉仕を忘れず、我々は胸に愛国心の精神を受け継ぐ。 パンチャシラ(建国5原則)を基盤とする公正で繁栄した社会の理想に向けて闘い続ける。
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全能の神の恵みによって。 バンバン・スゲン記念碑を発足。1985年 10月5日 インドネシア国防大臣・ポニマン

記された内容から、国家独立のために戦い、犠牲になった人々に対する追悼碑とも捉えられる。引っ掛かるのは"侵略者によって"の一言だ。

辺りを見渡すと、他にも石碑のようなものを発見した。

「漢字だ!」
そう声に出していたかもしれない。
まさかインドネシアの山岳地帯に漢字の石碑があるとは。。
隣にはこの石碑の説明文であろうもう一つの石碑があった。

1945年9月、テマングンに日本人553名が居た。インドネシア独立軍と住民の融和を得て、友好に生活した。1946年5月、別れに際し"平和の尊さと友好の証"として、後世の平和を祈らんと、バンバン・スゲン将軍と刻した。1980年1月、石碑が見当たらず、探索をインドネシアの友人に依頼。同年3月、路肩に埋没を発見、再建を決定する。1984年4月、テマングン知事と関係者の熱意と協力、日本人有志、友人各位の協賛を得て再建となる。
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石碑頌
識るや人 四十余りとせ そのかみの 平和悲願の 石子みをここに相集めて われら先人の遺志つがんとぞ 紅き炎の樹を供えて 心祈りて建ておえぬとき テマングンに陽は高く 空に冴え住む人ぞ またまどやかなり 
石碑よ とこしえに とこしえに 
燦として ジャワの地に 輝け

調べてわかった事は、当時、日本はインドネシアの独立を望んでいた事もあり、インドネシア兵(インドネシア独立軍)育成に力を入れていた。(オランダ統治時代、インドネシアは反乱の恐れがあることから団体行動や集会は禁じられていた)そういった背景もあり、インドネシア兵および現地人とは友好な関係を築けていたのだろう。石碑にも記されているように、日本兵も生活面でテマングンの人々にかなりお世話になった様だ。つまりこの石碑は、日本兵とインドネシア人との"友情の証"だったのだ。

ここで私が抱いた、"日本人がインドネシア人を虐殺したのではないか"という懸念は抹消され、肩の力が抜けた気がした。

石碑を保護していたであろうガラスは割れ、管理は行き届いていないものの、この石碑の存在と物語はテマングンの人々は皆んな知っている。

ましてはインドネシアの中等教育では日本の歴史について勉強するため、日本とインドネシアの関係性をインドネシアの子どもでさえ理解している。

私がインドネシアに来る前、インドネシアについてどれだけ知っていただろうか。
バリ島、ナシゴレン、デビ夫人、この程度だ。

私がテマングンに導かれたヒントはこの石碑にあるのではないか、この地で起きた歴史をどれだけの日本人が知っているのだろうか。
先人が残した遺志を受け継ぐのは、現代を生きる私たちだ。
私は石碑に眠る物語をさらに堀り深める決意をする。

そして、この物語の鍵となるのは"帰らなかった日本兵"だ。

へつづく。

#この街が好き
#一度は行きたいあの場所
#私の仕事
#インドネシア

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