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書く事とマイノリティ

大学時代、私はカナダのモンクトンという街にある大学に、約7カ月ほど留学していた。モンクトンは人口も少ない静かな町で、あと、冬がとにかく寒い。冬になると腰の位置まで雪が積もるので、スキーウェアを持って行ったくらい。ハリーポッターのホグワーツみたいに大学のまわりには何もなくて、その分大学内に色んな施設が入ってた。図書館、スポーツジム、大きな食堂、学生寮…などなど。外に遊びに行くこともなく、ある意味学習するには最適な環境だった。
ちなみに赤毛のアンの舞台になったプリンスエドワード島が近い。

その大学で私は、英米文学の講義を取っていた。毎回教授が指定する本を読んで、グループで20分ディスカッションして、最後は教授が喋って終わるという内容だった。
そこで私は「日本では黙ってても好意的に受け取られるけど、こっちでは発言しないと自分が存在していない事になる」と知った。
課題本は読みこんでいたし、講義は録音して毎回復習したし、話したい事はノートにメモをして準備万端で挑んでいるのに、ディスカッションになると何も言葉が出てこなかった。

毎回この「ディスカッションタイム」が地獄で地獄で。自分は”存在していない人”とされて、目の前で皆が盛り上がっているのを黙って眺め、自分が本当に嫌いになった。
授業後に教授に呼び出されて「ここは語学学校じゃない。語学力が足りないから受けるのを辞めた方がいいよ」と注意を受けた。
でも、先生や皆の言っている内容を理解していないわけじゃなくて、”自分の言葉で話す”が出来ないんですと訴えてみたが、「言葉にしないのは理解していないのと同じだと思うよ」と言われて何も言い返せなかった。まあその通りか、と思った。でも意地になって、とりあえず最後まで出席は続けて、見事その講義は単位を落とした。

不思議なもので、自分がマイノリティになればなるほど、自分の輪郭がはっきりしていくような感覚があった。謎のエネルギーに包まれたというか、底辺まで落ちたところからムクムクと湧き上がる生存本能みたいなもの。もしかしたらこれが、自分の中にあるものを書いて外に出したいなと思ったきっかけかもしれない。

今でも日常的に、マイノリティに感じる瞬間というのは転がっている。皆はこう言ってるけど自分はどうやら考えが違うな……とか。そこで感じた気まずさとか、劣等感とか。でもその場では皆に合わせちゃったなあ〜とか。
そういうのが積み重なって、じゃあこの悶々とした気持ちを創作で発散してみようかな、となるのかもしれない。

あの大学の講義室で、私は今までにないくらいはっきりと「自分はここにいる」という感覚を持った。
自分は日本人で、意見を言うのが苦手で、でも頭の中にはたくさんの考えが溢れていて、これを目の前のみんなに伝えたいと切実に思っている。
あの時のエネルギーが私の体の中に残っている限り、多分私は創作を続けられるんだろうと思う。