見出し画像

公園シャドーボクシングおじさん

家族連れで賑わう秋晴れの公園の空気を一瞬でピリッとさせてくれる存在をご存じだろうか?そう公園シャドーボクシングおじさんである。

彼らは主に鉄棒エリアに現れ、懸垂したり足上げ腹筋などの筋トレをやり出したかと思うと、突然見えない敵とシャドーボクシングを始める。小太りで現役で格闘技をたしなんでるとは到底思えない体形にもかかわらず、メイウェザーのように足取りの軽いステップからゴロフキン顔負けの左フックを繰り出す。亜種として空手乱取りおじさんなども存在する。

その異様さに多くの家族連れはそっと距離を取る。しかし彼らの眼には周りのことなど移っていない。目の前の仮想敵のみを見据えているからだ。老眼になりかけている彼らの瞳には一体どんな敵が映っているのであろうか?暴漢に襲われる若い女性を助ける際の予行練習かもしれない。

時折、限界中年の巣窟ツイッターでは彼ら中年ボクシングおじさんが自ら華麗なシャドーボクシングの動画をアップして若者に負けない動きを自慢していることがある。そういったアカウントに対する世間の評価は嘲笑と恐怖である。馬鹿にする者たちは面白がって持ち上げて笑いものにし、恐怖する人たちはそっとミュート・ブロックする。

私自身も同じ中年としていささか恥ずかしいというか、見ていられない気持ちが強いというのが本音である。いい歳をして、そんなに脚を上げて股関節や腰は大丈夫なのか?と心配になってしまう。しかし、そんな気持ちの奥底にほんの少し湧き上がる感情がある。それは”羨望”である。

歳を取ればとるほど、若かった時のような自分が最高であるという自意識の高さや、周りの目を気にしない不遜を失っていくのが人間である。身体も動かず、頭も働かず、肉を喰えば胸焼けし、深酒をすれば次の日動けない、たまに気張って運動したらすぐにケガ、それが悲しい中年の現実なのだ。それに比べて彼らはどうだ。中年になってなお、若者の特権であるはずの高い自意識と自尊心を保っている。

鍛えている中年がその身体や運動神経、スタミナを誇るのは理解できる。事実若者の何倍も重いものを持ち上げたり、走ったり、泳いだり飛んだりできる中年は沢山いる。食事を気を付け、日々運動を欠かさず、老いと戦っているアスリートたちは本当に素晴らしい。彼らが自分に自信を持ち、高い自尊心を維持しているのは当然と理解できる。それに足る努力が見えるからだ。

それに対して中年シャドーボクシングおじさんはどうか?あくまで想像で恐縮だが、彼らのわがままボディやほっそりボディをいる限り、とてもアスリート中年のような努力をしているとは思えない。そう彼らの自信には根拠がないのだ。彼らは何の鍛錬もしていないがメンタリティは若者に負けないボクサーであり、メイウェザーであり、ゴロフキンなのだ。根拠がなくても強くいられるのだ。

世間は”アホ”の一言で片づけてしまうかもしれない。確か身の程知らずではあろう。しかし身の程を弁え、年相応に出しゃばり過ぎず、家族や同僚や後輩にウザがられず、日々の生活を淡々とこなしている我々しょぼくれた中年と比べたときに、果たしてどちらが幸福なのか?もしかして、いつまでも20代の気持ちのまま生きているシャドーボクシングおじさんの方が幸福なのではないか?そんな気持ちがいつも胸の底にある。

「足るを知る者は富む」ということわざがある。欲深くならずに分相応のところで満足することができる者は、心が富んで豊かであるという意味だ。この言葉を自分の人生で何度も唱えてきた。器を越えたものを欲する人間は不幸になる。誰しもが若い頃に無理をして失敗したがあるだろう。”身の程”を知ることが人生の幸福につながると、アラサー以降はいつも考えてきた。でも本当にそうだったのだろうか?

ここから先は

816字

¥ 200

サポート頂けるとnote更新の励みになります!いつもサポートしてくださっている皆様には大変感謝しています。頑張っていきますので、どうかよろしくお願いいたします!