〇〇人とは何か

私には大好きな叔母がいる。
どんなところで怒るか分からなくて、私はいつも導火線に触れないように探り探り話すけれど、導火線に触れない範囲なら会話を楽しめる人。
何でも自分の話に持っていってしまう父とは違って、同じ話の中で膨らませながら一緒に盛り上がってくれる人。

2割くらい好きになれない部分があるけど、8割くらい好きな人。

けれど、先日の発言は、あまりにも衝撃的で、その2割と8割の関係がひっくり返りそうになった。

私たち2人は先日、兄の入っている大学の合唱団の演奏会を見に行った。合唱団といえど大学の学生団体だから、そんなにめちゃくちゃ上手い、というわけではない。けれど、学生なりのノリで、本人たちは楽しんでこのステージを作ろうとしているのだな、ということが伝わってきた。

その帰り、車の中。叔母が言ったこと。

「あの代表の子が礼するとき、手をきゅっとお腹のとこに当ててしよったやろ。デパートみたいに。
あれは許せん。あれは韓国のやり方よ。
あんたは日本人やろがと思うた。コリアンやないやろ。許せん。」

え、と思った。
何をどう返事していいのか分からなくて、とりあえず「ほうなん、知らんかった」と言った。棒読みみたいになったけど。

その話はそこで切れてすぐ別の話題に移ったが、私はそのときの衝撃が忘れられなくて、その後何の話をしたのかよく覚えていない。きっと返事もいいかげんなものだったに違いない。

何がこうも衝撃的だったのか、実は今でもうまく整理がつかない。
叔母がこんな発言をした原因として考えられるものを列挙してみると、
①韓国人のことが好きではない
②日本人としてのアイデンティティの強さ
③発表者が公の場にふさわしくない態度をとったこと
あたりだろうか。

確かに、気持ちは分からなくもない。
近くの外国の人が日本の生活に馴染めずにすれ違いが起きたら、私たちはいとも簡単に
「あの人はよその人だから仕方ない」
と考えてしまう。
その裏返しとして、「ウチ」にいる「日本人」に対しては「日本人たる行動をすること」を求めてしまうのだろう。それは何となく、分かるような気がする。

規律を守れないのは「ソト」の人だから。
「ウチ」の人間は規律が守れて当然。自国の文化に合った行動をするのが当然。
そんな感覚だろうか。
だから、(故意ではないだろうが)代表の人が「韓国風」の礼をしたことに対して、この国の人間としての行動をしろ、そうでないと「許せない」という考え方にいたったのかもしれない。

そう、そんな風にまとめてみれば、発言の意図は分かるような気がする。

ただ、私が気になるのは、「あんたは日本人やろが」という部分である。
確かに配布されたパンフレットの名簿にある名前は、「日本人」らしいものである。

けれど、これだけ国際化が進み、日本にも当たり前のようにミックスルーツの人が存在するようになった今、名前だけで「〇〇人」を判別することは可能なのか。

そもそも、「〇〇人」を定める意味は何なのか。
〇〇人と△△人の境界はどこにあるのか。
その境界が、そんなに大切なものなのか?

一般的には、〇〇人はその人の国籍に由来すると思われる。
けれど、ある国籍を持っていても実際には別の国の居住歴の方がよっぽど長く、その国籍の公用語が話せない人だって数多く存在する。
国籍を複数持つ人もいる。
外見や名前は「日本人」らしくなくても、日本国籍の人もいる。

最近出てきた「トランスナショナル」という概念。インターナショナルが政治的な国を飛び越えた交流などを指すのに対して、トランスナショナルは人や社会に焦点をあてる。

国も国籍も、制度として定められたものにすぎない。それがその人の生活の実態をまるまる反映しているかというと、そういうわけではない。

それなのになぜ、私たちはいとも簡単に、「〇〇人」なんて、言ってしまえるのだろう。
そして、「〇〇人」から外れた行動をとった人のことを、なぜ「許せない」と感じるのか。

当たり前のことだが、同系統の集団にいた方が、コミュニケーションをとるうえでの様々な負荷がなくなり、円滑に物事は動く。それは国なんて大きなものでなくても、身の回りの小さい集団でもそうだろう。

けれど、今回叔母が怒ったのは、今後関わることのないであろう合唱団のある1人に対してである。
自分の生活が円滑に動くかどうかに関与する人間ではないのに、なぜそこに叔母は「怒り」という感情を持てたのか。

何も叔母が不寛容な人間で、新しい概念は何もかも切り捨てる人、というわけではない。頑固なので受け入れるのに時間はかかるけれど、そうと分かればころっと納得してしまうような人でもある。
実際この前、成人式の振袖について話していたときは、
「もう時代が変わるときやし変わってほしい。変に縛られずに。今は女性が振袖いうんが当たり前になって没個性的になった。まだまだ、男性に比べてそういう縛りが多い。」
なんて話していて、あ、この人も多様性の推進に前向きなのかな、なんて思っていた。

だからこそ、今回の叔母の発言には裏切られた気分だった。
多様性を認めようとする立場じゃないのか。自分に都合のいい「女性」枠にはそういう思いがあっても、「ソト」の人間には、あるいは「ソト」の文化を(故意でないにしろ)取り入れた人間に対しては分断してしまうのか。

今の大学に入って、色んなルーツの人と関わったり、授業で文化論を学んだりしたからこそ、私は今、叔母に対してもやもやした気持ちを持っているのだとは思う。
「若い」はずの私ですら、そこの知識がなければ叔母と同じように、その子のことを非難したかもしれない。

私が叔母に怒れるのは知識があったから。そういう人の存在を生身として受け止めてきたから。
だから、叔母が冷たい人間だと突き放すべきではない。マイノリティの顔が見えない限り、私たちマジョリティには分からない世界がいっぱいあって、私もきっと別の場所でマジョリティの特権をふりかざしている。だから、叔母だけを責めたって何にもならない。

これが、叔母との会話から数日経っての私なりの結論だった。

ただ、そうは言っても、その話を蒸し返して共に学んでいこう、という姿勢をとったなら、叔母の性格上、手につけられないほど機嫌が悪くなって、いつもなら怒るなんて考えられない些細なことで当たり散らすに違いない。
そう思って結局は何もできず、萎縮するのが自分なのである。最終的には我が身を守りたいだけなのだ、私だって。

綺麗事を言ったって、大学でどんなに「自己」と「他者」のあり方を学んだって、私には外に向けて何にもできやしない。
物凄く悔しくて、悔しいのに動けなくて、自分に絶望して。

絶望して絶望して、立ち返ってみたときに見えるものがある、と大学のある先生は言った。それもそうかもしれない。
今の私には叔母に何かを諭すのは無理だろう。諦めるしかないことも沢山ある。でもいつか、それで困っている人のために手を差し出せるように、私は私自身の心を耕すcultivateするしかない。
たぶんそれが、私が大学で学ぶ意味なんだろう、と思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?