「普通」になれない

私は本当に小さいとき、それこそ物心ついた頃から、自分の家は一般とちょっと違うな、と思って生きてきた。
勿論どんな家にだって他の家と違うところはあるけど、たぶん他の家では予想もしないところで違っていた。
基本の「き」にもならない根本からずれていて、普通の道を歩もうにも、最初から道が違うから戻るための道がなかった。

他の人を見ていると、「ああこの人はちゃんと一般人になるための躾をされてきたんだ」「この人の家庭はきっとまともだ」と思ってしまった。

幼い頃からずっとそうで、自分がその道にいないことが分かっていた。
親を恨めばいいのか、現実として受け入れるしかないのか。
解決しようにももし本当に他の人と同じような環境に変わったなら、それは今まで生きてきた長い年月を否定することにもなる。
そんなことを小学校の低学年のうちから悶々と考えては、どうにもならない現実の中でとりあえず息をするしかなかった。

一番大きな考え方の違いは衛生面だった。

私が幼稚園の年中か年長かのとき、私が同級生に言ったこと。
「昨日お風呂入ったからさっぱりした」
同級生、きょとんとする。
「何言ってんの、そんなの毎日じゃん」

これが自分の記憶の中にある、一番初めの他人との違いだった。

自分の家では、お風呂に入るのは3日に1回だった。
自分では汚いだの何だの考えることすらなかった。生まれたときからそれが当たり前だったのだから。
疑うことさえしなかった。他の家もそうだと思っていた。

実を言うとこのときは、「この子の家は毎日お風呂に入るんだ〜」くらいの気持ちだった。

それから随分このことを忘れていたのだが、小学6年生も終わりの頃、通学路が同じで毎日一緒に帰っていた幼馴染の親友が言った。

「うちの父さん、最近疲れてるからって2日に一回しか風呂に入らねえんだぜ。きたねえ」

あれ、と思った。
この子とは本当に長い付き合いで、何でも互いのことを知っているくらいに思っていたのに、まさかこの子ともこんなに根底の部分が違うのか、と。

この日に私は幼稚園のとき別の子に言われたことを思い出したのである。
そうか、あの子の家だけが特別だったんじゃない、私の家がおかしかったんだ…。

当時の私も、やはり3日に1回風呂に入る生活だった。おかしいと考えることもなく、それを当然として12年間生きてきた。

もっと言えば、私は中学校から別の市に引っ越して祖父と叔母とともに住むことになった。そのとき、3日に1回しか入ろうとしない私に、
「普通は風呂は毎日入るもんよ」
と叔母は言った。
このときにはもう私は小学校までの生活が「普通」でないことを知っていたので、ああやっぱりあの家はおかしかったんだ、と受け入れた。
そして徐々に体を慣らしていった。まずは2日に一回から、そして少しずつ毎日入るペースができていった。
大学生の今では、毎日体を洗う習慣が当たり前になっている。そんなの基本という以前の問題だけど、そんな習慣すら長いこと私にはなかった。

他にも衛生面で言うなら、毎朝顔を洗うことも知らなかった。
小学校中学年の保健の授業で、正しく生活できてるか、みたいな旨のチェックリストの中に「毎朝顔を洗う」の項目を見つけてびっくりしたものだ。そんな習慣が他の家庭にはあるだなんて!

そうそう、他の家では毎日寝巻きも着替えるものらしい。そういうことも中学校から叔母らと住み始めて指摘されるまで一切知らなかった。
あと、髪を整えるとか、毛を剃るとか、部屋の掃除を定期的にするとか、とにかく衛生面に対する知識の欠如には、ずっとコンプレックスがある。

そんな生活をしたわけで、「お洒落」にも一切興味がなかった。他人がどうしてそんなに煌びやかにしているのか、本当に心の底から理解ができなかった。というか今もできない。

どうして髪を染めるのか。
どうして高級な服を身に纏うのか(私の「高級」は1000円以上の服を着ることである。この価値観からどうも世間とはだいぶ違うらしい)。
どうして医療脱毛をするのか。
どうして化粧をするのか。
その他もろもろ。

皆には分かるらしい当たり前のことが、本当に理解できなくて、そのことを苦しく思っても、どうすれば皆と同じになれるのかわからなかった。
お洒落な雑誌を読んで学ぼうにも、まだ私には基本が欠如しているんじゃないか、私の知らない常識がたくさん転がっていて、でもそれは明示されていなくて、そういう明示されていない常識の上に、やっと雑誌に書いてあることが成り立つのではないか…。

人生のいろんな場面を通じて、そういう常識の欠落を知っては人生に絶望した。
私は普通になれない、なりたいのになり方が分からない、勉強しようにもあまりにも基本すぎてそんなことを教えてくれる人がいない。

衛生面だけではなく、さっきちらっと書いた金銭面にしてもそうだ。私はいまだに、服を買うときは「500円セール」みたいなところ以外の服を見ることができない。2000円程度の値札を見るだけで「私とは違う世界」と切り離す。これはもうどうしようもない価値観だと思う。

私が主役になってはならない。他の人のような贅沢な暮らしは許されない。私みたいな生き方が今の物価高騰の日本にはふさわしい…。
そんなふうに、結果として私は「節約」を盾に自分を肯定する方向へ進んだ。何をするにも基準を「節約」にすると、迷いが吹っ切れるような気がした。

「節約をしている」というと、周りの人は何となく優しくなる。ちゃんとしてるね、と。
そうやって褒められる(?)のをいいことに、私の生活はどんどんエスカレートしていった。

ところが大学生として過ごしていたある日、先輩が言った。
「私は大学生のうちは稼いだ金は全部使うようにしてる。そんなん社会人になったらいくらでも稼げるし節約なんかする意味ない」

この言葉には本当に衝撃を受けた。

あれ、それじゃ私が今まで生きてきた道は何だったんだ???
自分はこの道を正解にするしかなくて、そうするためにとったポジティブな方向が「節約」だったのに、そこには「意味がない」???


書いていくときりがないけれど、色々な出来事があって、衛生面とか金銭面とか、私にはたくさんのコンプレックスがある。

お洒落をしない言い訳を自分がXジェンダーだから、と最近のトレンドで説明しようとしてみた日もあった。
確かにそれはある程度有効で、実際自分には男女の枠に当て嵌めきれなかった出来事がたくさんあるから、Xジェンダーという言葉に救われもした。

でも、でも。
どんな言い訳をしたって、やっぱり私は基本の部分が他人とずれている。
その思いだけはどう頑張っても拭えなかった。


もう数週間もしないうちに、私は成人式を迎える。
皆は振袖を着るらしい。SNSでたくさんの前撮りの写真を見た。

一方の私はどうしても振袖を着る気持ちにはなれなくて、スーツで行くことを選択した。高校の同窓会も皆はドレスを着るらしいけど、私はスーツ。
振袖とか、ドレスとか、そんなのは人生の主役になれるような「普通の人」が着るべきで、道が外れてる私は着るべきじゃない。そんな思いがあるのだと思う。

たぶんこれからの人生、同じようなところで私はぐるぐるし続ける。
とりあえず、成人式を迎える前に、私がどんな気持ちでスーツを選ばざるをえなかったかを書きたくて、久々にこんなにだらだらと書いてみた。

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