私が休学した理由

「なんで休学したの?」

この質問を何度もされてきたが、休学4か月目の今も、他人に語れる答えは出せない。

「他人に語れる」と書いたのは、外に出せるキラキラした部分だけではなくて、自分の暗い部分が複雑に絡んでいるから。
理由はこれです!と分かりやすく一言で提示できるものでは到底ないのだ。

だから、このnoteはそんな複雑な部分を自分の中で紐解くために、大学時代を簡単に書いてみることとする。

大学1年、1人でいることを選んだ

初めに言うと、私は大学に友人がいない。
入学当初友人作りに失敗した、と言ってしまえばそうだが、その要因として挙げられるのは、「本州の人と交わるのが怖かったから」
四国・愛媛で生まれ育った私には、本州はとても遠い世界だった。大学に出て出会う人は全て「本州の人」という目線で始まった。自分にとってのヨソモノに急に取り囲まれて、ウチの人間が殆どいない。そんな中で私はいつまで経っても心理的安全性を確保できず、どこまでいっても孤独感に苛まれた。

本州といってもその中には大都会・東京の人から東北・中国地方などいわゆる世間的には「地方」と括られる地方も大勢ある。それは分かっていたが、それでも「本州の人」の価値観は四国とはかけ離れていて、彼らが当たり前に接してきた文化を自分が持っていないことが恥ずかしかった。
けれど、それを「恥ずかしい」という感情だと自覚できないまま、妬み・恨みのような感情として認識していた。この人たちは自分が本州で育ったことを無意識に自慢している、私たちは蔑まれている、四国の人間の思いは所詮四国の人間にしか分からない。そんな思いでいっぱいだった。
だから、そんな人たちに左右されてはいけない、振り回されてはいけない、私は四国の人間だという自負を持たなければいけない、と変なプライドで人との関わりを断ち続けた。

そんなこんなで、新しく出会う人と表面的なかかわりはあれども、個人的にご飯に行く・深い話をする、といった付き合いを誰一人とも持てなかった。大学1年生の頃はそれでも良かった。こんな人たちと一緒にいたら自分が腐る、とさえ思っていたので、「腐らない」ために、一人でいることを選択し続けた。
ただ、人と交わらないことにはいつまで経っても自分の価値観はアップデートされないもので、大学1年生の頃は「何かの刺激がほしい」という意味の分からない焦りが自分を支配していた。とはいえ、「刺激」を得るために何をしたらいいのかは全く掴めず、唯一仲良くなった同じスペイン語の授業をとっていた文学部の人に「スペイン語サークルでも立ち上げたら刺激になるよ!」と言われるも、その方向には全く惹かれず、1年間が終わった。

大学2年、限界を迎える


大学2年生の秋ごろだった。あ、これはもう、だめだ。という感覚が分かりやすくあった。
細かい部分については以前noteに記したとおりである。

上の記事を簡単に言えば、他の人が自分の道を徐々に見つけ出して、色々な経験を積んでいる一方で、自分はいつまでも「自分」という内側だけに閉じこもって、新たな世界へいつまでも飛び込めないことが情けなくなった
自分はできる人間だと思っていたのに、京大を落ちてこの大学に来た優秀な人材なのに、何で他の人より劣っているんだろう…何で高校のときの進研模試で全国8位を取ったこともあるこの私が、こんな低レベルの大学で、しかも他の人に負けているのだろう…。

今思えば傲慢以外の何物でもないが、そんな気持ちで徐々に塞ぎ込んでいった。立ち上がること、なんでもない普段の生活を回すことができなくなり、なんでもない授業中に急に涙が出てしまうことも度々あった。
このままでは自分が壊れてしまう、ということは明白だった。一刻も早く大学を逃げなければならなかった。逃げたい逃げたい逃げたい、逃げないと死んでしまう、…。
ちょうど12月にコロナにかかって授業を1週間休み、そこから冬休みに突入して授業についていけなくなったことがその気持ちに拍車をかけた。


(何で自分は高校まで「優秀」だったのに、こんなに何もできない人間になったのだろう?
やっぱりこの大学に来たのは間違いだった。)

大学2年冬、転機

そのように塞ぎ込んでいる中で、自分に希望の光を見せた出来事が2つあった。
1つは、地元の小学校の同窓会
私は小学校を卒業して約10年間その自治体を離れていたので、皆がどんな風な進路を選んでいるか、まるで知らなかった。会ってみれば、皆は多種多様な人生を歩んでいた。小学校のときちゃらんぽらんで碌に提出物も出さず遊び呆けていた男子があのレクサスでばりばり働いていたり、そこそこ勉強ができた子が東京でホスト狂いになっていたり、多様な分野の専門学校に通っている人が複数人いたり、…。
通っていた中高一貫校は基本的に全員「大学に行く」が当たり前で、国立大学に行かないことは負け組、という価値観が強かった。それが当たり前で、それ以外は落伍者だとすら思っていた。そんな価値観で育った分、国立大学に行かない選択肢を取っている人の方が多い小学校の同級生には、かなりの衝撃を受けた。

(人生って、こんなに多様でいいの?)

自分が当たり前だと思っていた価値観が、一気に崩れた瞬間だった。
昔「だめ」だった人が、その後「だめ」とは限らない。
昔「輝いていた」人が、その後も「輝ける」とは限らない。

そんな学びを得て、心の底から揺さぶられた。

2つ目は、島根県海士町の「大人の島留学」という就労型お試し移住制度の一環である、「お試し島留学」という2泊3日の移住体験プログラム。
ここで感じた思いは、同窓会で得た「人生って意外と多様でいい」という気付きを、より強くしてくれるものだった。
海士町にもやはり国立大学に行く、以外の選択をしている人が大量にいた。大学卒業後就職した者の今は休職している人、休学している人、大学に行かずフリーターを続けている人…。
というかそもそも、海士町は本土からフェリーで3~4時間離れた離島にある。「大企業に入るor公務員になる」という分かりやすい「正しい」ルートを逸れて、わざわざこんな島に来るなんて!!
ここに来る人はよっぽど人生に疲れた人なんだろうな、それなら私でも受け入れられるかな、というマイナスな希望を持って行ったのに、そこにいた人たちは目を輝かせて、これからの人生への希望を語っていた。私は将来こんなことがしたい、こんな人生を歩みたい、ここにこんな価値を提供したい…。そんな風に語れる何かをこの島で持っていることが羨ましくなった。

(ここなら私も変われるんじゃない?
いつまでも、内側に閉じこもって塞ぎ込んでいる自分にケリをつけられるんじゃない?)

…希望はどんどん膨らんだ。
そこから検索魔になり、大人の島留学関連のnoteがアップロードされるたびに全て読んだ。ここなら救われる、私も生きていける!!絶対的確信を持った私は、在学中に絶対に島留学に参加することを決めた。それを生きる糧として、3年の春学期は必要な単位を必死で習得した。
そして3年の秋学期から晴れて休学して、今、大人の島留学制度に参加している。

休学した本質的な理由

こんな経緯で休学したものだから、明確に「休学したかった理由」があるわけではない。
担当教員には「大人の島留学に参加したいから」ということを休学理由として伝えたしそれは間違っていないのだが、本質的な理由を言うとすれば、「過去の狭い視野の自分を捨てたかったから」だと思う。
最初は「大学から逃げたい」で始まった思いは、多様な人生があっていいことを同窓会とお試し島留学で知って、自分もその「多様」に投げ込まれてみたくなり…という風に変化した。

これから

さて、今の悩みは4月からどう過ごすか?ということである。
休学期間は2023年10月から2024年9月まで、ということで申請してあるが、島留学は3月で終わる。延長したい気持ちもあるが、業務委託契約という制約が扶養や奨学金免除に色々と関係してきて、これ以上ここにいると奨学金に響くと分かったので3月で終えることにした。
今はリゾートバイトや地方インターンを探して4月からの半年の滞在場所を探しているところだが、選択肢は多いのに自分がしたいことが分からなくてどれにも応募できないでいる。

「多様な選択肢を知る」「自分を『多様』に投げ込んでみる」
この目的は、10~3月の半年でかなり達成されてしまった。
じゃあこの後は?同じ目的のまま場所を変えてみる、だけでいいのか?

なんとなくしてみたいこととして「ゲストハウスに関わる」というのはあるが、それは半年もかけてしたいことなのか、そもそも自分が客側に立ちたいだけで迎え入れる側にいたいわけではないんじゃないか、という気がして、もやもやしている。

とりあえず、人生の大きな目標は、
「各人の地元を『好きだ』と胸を張って言える環境を作ること」。

そのために自分がどういう活動をしていきたいのか、じっくり腰を据えて、でもちょっと急いで考えていきたい。4月はすぐそこだから。


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