見出し画像

一杯のグラスから

グラスで水を飲むという行為

これまで生きてきた中で一体何杯の水を飲んだのだろう。


グラスに水を注ぎ、それを手に取り喉へと流し込む。

この日常に埋もれた動作を普段、意識することはほぼない。


『コップの水を10分かけて飲む』


これはある舞踏家さんが実際の稽古でやっていると言われたことだ。

これをまじめにやると、何かが変わるのだと。




目の前のグラスに注がれた冷たい水

まるでつた の葉先のように、ゆっくりと空氣を探りながらグラスへ手を伸ばす。


空間上にはグラスへと向かう軌道が一直線にイメージされる。

それぞれの指はグラスに到達するまでにそれを掴むのに丁度よい間隔と角度に配置されなければならない。


グラス全体に手が近づく


手のひら全体にグラスの放つ存在を感じる。


ここはグラスの領域なのだ


グラスの持つ硬質感
表面にびっしりと蓄えられた冷たい粒


それらに同時に触れた時の感覚が事前に伝わる。


知覚には記憶が伴う

水の冷たさ、グラスの重さ、グラスにまつ わるさまざまな日常

重畳する幾つもの記憶がグラスをグラスとして目の前に存在させている。


親指がグラスに触れる

事前にイメージした硬さと冷たさにピタリと重なる。

小指、人差し指、そして中指と次々にグラスに触れていく。


それぞれの指がまるで独立した生き物のように
繊細にそれぞれの冷たさを感じ取る。


ここから七分目まで水の入ったグラスの重さをイメージしながらそれに相応しい力でグラスを持ち上げる。


仮に持ち上げる力が強すぎれば水は勢いよくグラスから飛び出してしまうだろうし
力が足りなければグラスは持ち上がらず水を飲むことはできない。


私は水がこぼれないようにちょうどよい塩梅の速度と軌道でグラスを口元まで運ぶ。



目線を意識する


私の視線はずっとグラスをみつめている。


よく目線は一本の直線で表現されるけれど、正確には二本だ。

何故なら右目と左目は別々に対象物をみているのだから。


そもそも右目がみている世界と左目がみている世界は本当に同じ次元のものなのだろうか?


そんなことをぼんやりと思ううちにグラスの淵がゆっくりと唇に触れる。



ふと、ある感覚に陥る



どこか慣れ親しんだような感覚

その感覚に符号する「なにか」を自分の中からぐるぐると探し出す。



「そうだ、瞑想をしている時の感覚だ。」


グラスをぼーっとみつめながら何氣ない動作をする感じは瞑想で自分の存在を感じている感覚に似ている。

口から冷たい水を感じる感覚やグラスを持ちあげる筋肉や関節の動きを注意深く観察する感覚は呼吸に意識を向けている感覚に近い。


ゆっくりと動くこと

ただそれだけで

そこに映し出される世界はまるで違っていた。



私は私の速度で生活しているのだ。

私は私の速度を生きている


それは誰とも比べられない
私だけがつくりだす時間だ。


なまけものが感じている世界

彼らが感じている世界はおそらく人間とはまったく別の世界なのだろう。

子供の感じている世界もまた違う

子供たちは瞬間性を生きているから時間の流れが大人とは違うからだ。


私達は一見同じ空間で同じように生きているように見えても

実はまるで別の世界と時間軸を生きている。



ゆっくりと動作をすることで意識は細部へと張りめぐらされる。


細かい作業に瞑想と同じ効果があるのはミクロに意識を向けるから。

マクロに意識を向けると意識は希釈され、ミクロに意識を向けると意識は高まる。

人間はミクロとマクロの狭間を生きている。


能や日本舞踊のゆっくりとした動きや細部への集中、日本の伝統工芸の職人達の繊細な細部への情熱


神は細部に宿るの本来の意味を知る



人は細部に集中することで無意識領域に僅かに接するのだろう。
俗な言い方をすれば神に近づくということでもあるのかも知れない。


目の前の景色こそが本当は潜象であり

山に籠らなくともインドにいかずとも宇宙に飛び出さずとも
意識変容は日常にこそあるのだろう





再びグラスに水を注ぐ。


自らの身体に刻まれた神聖なリズムを感じながら




「私の時間」が再び動き出す




*・゚゚・*:.。..。.:*