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今は無き素読教育

先日、小田原にある二宮金二郎の生家と記念館に足を運んだ。

プラプラ見学していると、突然管理人さんに声をかけられ、二宮金二郎について、かなり詳細にご教示賜った。(2時間半くらい付き添っていただけたかな・・笑)

ところで、周知のように二宮金二郎は勉学に勤しみ、数々の村の財政を整えた。ではなにを勉強したいのか?というと、和算や俳句など様々だが、『論語』に肩を並べる中国の四書『大学』を読み込んだらしい。

そこでふと、「『論語』を読み込み、日本の近代化を支えた渋沢栄一と状況が似ている!」と気づき、管理人さんに語ってみた。

すると管理人さんは話を日本の教育に転じ、「昔は素読教育で学生は四書を一言一句暗記した。まずは文字という姿に触れ、人生の中で折に触れて想起していたんだね。今は姿を教える教育が蔑ろになっているね。」と優しくも刺々しい口調で語った。

僕は小林秀雄の言葉を思い出せずにはいられなかった。

論語を簡単に暗記してしまう。暗記するだけで意味が分からなければ、無意味なことだというが、それでは論語の意味とはなんでしょう。それは人により年齢により、さまざまな意味にとれるものでしょう。一生かかったってわからない意味さえ含んでいるかもしれない。それなら意味を教えることは、実に曖昧な教育だとわかるでしょう。丸暗記させる教育だけが、はっきりした教育です。

論語はまず何を措いても、「万葉」の歌と同じように意味を孕んだ「すがた」なのです。古典はみんな動かせない「すがた」です。その「すがた」に親しませるという大事なことを素読教育が果たしたと考えればよい。「すがた」に親しませるということができるだけで、「すがた」を理解させることはできない。とすれば、「すがた」教育の方法は、素読的方法以外には理論上ないはずなのです。
実際問題としてこの方法が困難となったとしても、原理的にはこの方法の線からはずれることはできないはずなんです。

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