祖父の死

先日祖父が亡くなった。85歳だった。
※以下祖父のことを呼び慣れた「じいちゃん」と書いていきます。

ある日の昼間、入院していたじいちゃんとの面会を終え、家で夕飯を済ませた瞬間に病院から緊急の電話があり、急いで病床に向かった。病院までは1時間程度だったが、その時間はなぜか質量をもっており、鉛のように重く感じられた。病院に到着した後も、駐車場から病床までの道のりは何と長く感じられたことか。

病床に着くと、じいちゃんは面会時とは別人のように弱り果てていた。意識はしっかりしているものの、本人の意思とは関係なく、一秒でも長く命を繋ぎ止めようと体自体が活動しているような様子だった。

時間が経つにつれてその呼吸は徐々に浅くなっていき、それに反して、私の鼓動は徐々に早まっていった。秒針の動きに伴って何かが失われつつあるという事実、生と死という境界を彷徨うじいちゃんが目の前にいる不思議さに、どういう言葉を発すればいいのか、また何をすればいいのかがわからなかった。そんな状況が3時間程度続き、23時20分頃、ついに息を引き取った。最後までじいちゃんは安らかな表情だった。

その後、葬儀のための打ち合わせに参加して気を紛らわせていたのだが、一向に私の早まった鼓動は落ち着かなかった。
生まれた頃から私のことを知っているじいちゃんがいなくなったということは、私に関する記憶がこの世界から消失してしまったことを意味する。つまり、この日私はじいちゃんと、私自身の一部を同時に亡くしてしまった。そんなことを考えていると、やはり身も心も落ち着かないものだ。

さて、時間は飛び、じいちゃんが亡くなってから2週間ほど経った今、私の周りに広がる空間を見渡してみる。すると、日常というのは何事もなかったように変わりなく進んでいることに気づく。これまではじいちゃんがいる世界、今はじいちゃんがいない世界、全く違う2つの世界があるはずなのに、日常は無表情で淡々と歩を進めている。こうして時間というのは進み、生命の生成と崩壊は繰り返されて行くのだろう。

そこで思い出すのが、小津安二郎『東京物語』である。この映画では、母が亡くなったことを受けて家族一同が実家に集まるのだが、葬儀後にはみんなすぐ実家を離れ、彼ら彼女らはいつもの日常に戻っていく様子が描かれている。

そういった無常感と、今この瞬間を輝かせるための生という二つを、最近はより強く意識するようになった。




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