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henapo


 見ているものは断片で、まさにひとつの物を二つに割ったその二つの内側に向かう表面のことで。黒く尖っていたり、丸く削られていたりする、小さい石、そこには陽が当たり白く小さく泡が輝いて見え、それは岩山の落ち着かない足元を悠然と登っていく動物の毛の束でもあった。拾い上げられなかった石ころ、海辺に、浜にたどり着く頃に岩壁たちは全て小さくなっている、その無数の、数える事の出来ぬ量の、ひとつひとつを手に取り見比べたならば全ての揃いはなく、かと言ってひとつずつに記憶する程度の特徴も無い、その無数の山でそのひとつだけがはっきりと映る。二つに割れた黒石の断片に陽が当たっている。黄色い砂山に聳えるように二つの岩壁が立ち並ぶようにも映るが、それは決して特別なものではなくて、その他と同じくただ転がっている、打ち上げられている。その背面には青が見え、空中も海中も全くの青であり、その青中に影が動き、移動するのをよく見るのだった。
 
へナポは海岸沿いで幼い時間を過ごして、日に何度も海が目に映ることは彼の生活の一部だった。防波堤に沿い歩いていると犬を連れた女性が前から来る、犬が女性に連れられてへナポの前を過ぎるとき鼻を鳴らした、しわくちゃの顔だ、鼻の周りは黒く顔は白い、その質感の違いはへナポに触りたくさせた。「おばさん」とへナポは口に出した、その犬を僕に触らせてはくれないだろうか、とへナポは考えていた。女性はへナポの横を過ぎて林道へと向かって行った。聞こえていないふりをしていたように思った、聞こえていなかったのかもしれない、女性の顔は白かった、履き物と帽子だけが黒かった、顔はしわくちゃだった。その日も風が強く吹いていて、地面には緑の空き瓶が二本並んでいて、その口に風が吹き込んで高い音で鳴った。防波堤はそれ程高くない、低いコンクリの壁だ、へナポにとっては充分に高い壁だったがそれでも手を伸ばせばその天面に指が掛かり、勢いをつければ壁面を蹴り上げながらよじ登ることも出来た。それは陸側からの高さで、へナポの立つ防波堤沿いの道は盛り上がっており、海を見下ろす位置、海にとっては見上げる位置にあり、砂浜から陸に上がるときの防波堤は高い急な斜面としてそこにあり、駆け上がることもひと苦労だった。ユウイチが斜面を駆け上がって来て、その斜面の中腹で姿勢を崩し、斜面に勝手放題に育っている雑草の葉を握り込んで上がろうとするも簡単に音を立てちぎれた草を彼は投げ捨てると、次は右、次は左と、交互に手を使い雑草を引きちぎり引き抜きながらもこちらへ這い上がって来る。ユウイチは草をつかみ停止してこちらを見ると「henapo!」と叫んだ。それから彼は揺れる全身の肉と首筋から流れる汗を存分に見せびらかしながら、へナポに向かって上昇を続け、遂には草にも頼らず四つん這いになって這い上がり、シャツで汗を拭うと乱れた呼吸が落ち着く前に、「henapo!」とへナポをも見ずに叫んで海の方向にシャツを捲って腹を出し風を浴びると、昨年の夏、ユウイチは神社の裏に子供を集めて、といってもユウイチも子供でユウイチを含め子供が五人集まった、それを集めたのがユウイチだった。だから、ユウイチは五人を集めた、となる。「神社の裏な」とユウイチが言った訳ではなかったが何かしらの合図が彼から発信されたことは確かで日が短ければもう帰路に着く時刻ではあったが日が長いので自転車は一台、二台、と神社の鳥居に入る手前の、石垣とその石垣に無理に取り付けた粗雑な金網の前に、三台、四台と集まり、ディグは先に着いていてもう裏に立っていた、そのディグの膝と脛、そして右下の顎が出血をしていてもう血は固まって黒くなっていたのが目に入るとまずヨギが「転んだ」と尋ねて、ディグは背が高いから口ばかり達者なヨギとよく揉めた、だからヨギに「転んだ」と言われたディグは無視をしてヨギが「無視すんなや」と言うと同時か少し遅れてシントが「何したん」と言うとディグは「転んだ」と言い肘の固まった血を指の腹で触った。それに構わずユウイチは空き瓶の準備に取り掛かっていてへナポは「痛そう」と思ったが口には出さず、そのあと顎の血の塊を剥がし始めたディグを痛そうに見ていたが飽きて、格好をつけた松が植っているのは鳥居の横だけでそれ以外の敷地を囲っているのは椎と樫の木で、椎も樫も楠もへナポには見分ける必要もなかったので大きな木、もしくは木、だったがその木の太く高くうねっている幹とそこから伸びる枝の一本、というか、枝の束も太く、さらにはそれら束の全てに密着して葉がついている。日が傾く前の木は日光を妨げ優しい風を吹かせたりもするが、もう次第に日が暮れ始めていて、夏の夜のじめじめとした地表から湧き上がって来る熱気の予感がすでに空気としてあり、そうなれば屋根として我々に影を落としていた木々も気味の悪いものに思え、まだ決して木の印象は変化し始めてはいなかったが、日はまだ充分に木々の葉と葉の間から彼等を照らしてはいたが、へナポだけは誰よりも先に気味の悪い変化が起こり始めることを恐れるのだった。ヨギとディグは必要以上に罵り合っていたが、ヨギとディグの合戦はヨギの口攻撃が一方的であることが常で、それは激昂とは別種のちくちくとした言い回しで「だからディグは」と始まり長い長い嫌味になるのだが、その際のヨギの顔の作りや使い方はヨギの母にそっくりで、唇をあまり開閉せずに前歯に息を当てた発話で小刻みに音を出し、その表情は筋肉を忘れ去り弛緩し笑みとも怒りともつかない、その頭を支える身体も肩から生えた腕がだらんとぶら下がる、枯れた鉢植えの果樹のように力なく地面を捉えてただそこにありディグにとっても殴り甲斐がなく、ディグとヨギの体格差はきっちりと倍と半分の関係にあり、一番に高いディグは力任せならば一瞬で決着するこの合戦を自らが泣き出すことで終着させた。ヨギによればディグの次に神社に到着したのがヨギで、自転車を持っていないディグは走って神社まで来た。鳥居を潜らずにその横の金網をよじ登り境内へ入ろうとして落下し怪我を負った、そのシーンをヨギは目にしていたのだったが駆け寄りもせず、集まってから「転んだ」と確認のように聞いた。シントはへらへらと暫くしていたがディグが泣き出すと「そういうのがムカつくじゃんね」と言い、ヨギがディグに向かってほら見ろよという表情をつくり、「お前も」とシントがヨギをどつくとディグはそれを見て余計に声を上げて泣いた。ディグの声は低く、えずきながら泣いてディグは怪我でも泣かなければ厄災でも泣かず、でもこのようなことですぐに泣いた。時間はまだそんなに経っていなかった、木の上の方から鳥が下りて来た、地面にではなく、頂点の枝から螺旋階段をゆっくりと下りる足つきで少しずつ下りて来て一番下の枝の先まで来るとちょんちょんと鳴いた。へナポの他にはそれを見ている者はいなかった。ユウイチは全ての出来事の進行に興味を持たずにまだガラス瓶の準備をしていてカチャカチャと音を立てている。そのときへナポは何をしていたのだろう。

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