とおくはなれて

10年経ったという知らせが来た。このnoteを開設してから。10年だって。まいっちゃうな。何があったかな。いろんなことがあった。ひとつひとつ思い出すとあれもこれもこの10年の中に入っている。まとめて思い出そうとするとパニックだ。それから。何もなかったとも言える。そんな気分でもある。

2月に演劇をやり、それから何かにつけて自分を責める。/一旦ぼくを文字だけの存在として受け止めておいてほしい。実物などない。『ハーモニー』(伊藤計劃)と同じだ。あるいは『ここはすべての夜明けまえ』(間宮改衣)。ここにあるのは全て、書かれてしまったあとのもの。文字を読んで再構成するのは、読んでいるあなたである。その脳で再び文字が実像を結んでいるが、実在する、この文章を書いた人間はここにはいない。どこかですでに違う時間軸、違う場所、現実の場所で何かをしている。あるいはどこにもいない。

奇跡みたいな優しい綱渡り。書くという行為は確実に今を現実として感じさせてくれるけど、書いてしまった文字たちは確実に過去のものとなってしまう。

自分ができることややりたいことを考える。考える余裕があるのはありがたいことだ。

言語はすごい。言語には存在が埋め込まれている。個人が操る言語は存在そのものだ。そして時制も重要な要素だ。子供の頃、義務教育を受ける際に正しい時制を教わる。正しい時制。五十音が「あ」から始まり「ん」で終わる(という規則がある)ように、時間も過去から未来に流れていく(という規則/事実/認識を教わる)。時間とは一度きりだ。それを踏まえて言語は形作られる。言語には正誤があることを教わる。だからこそだ。時制に惑わされる。時制を含めた言語というものに惑わされる。言語・文法が自分と異なるルールで使用された際に、相互の認識の確認が無駄である場合、話者に訂正を促すか、自分が受け入れるか。選択する。仮に受け入れるとする。それは言語を耳にする、聞く、というだけではなく、咀嚼するわけだから話者の思想を体感するということだ。言語は言語ではなく、存在である。受け入れた側は、言語を通じて内部に他者の存在を立ち上げる。目の前の相手はこんなことを思っている、と。ところが理解をしようとすればするほど内部の他者が他者性を失っていく。言語は存在だ。肉体とは別の存在である。二つは隣り合わせにいたり、どちらかが先行したり、あるいは離れ離れになったりする。相手の言語を受け入れるとき、そこに独自の時制があればあるほど、こちらの内部で認識が歪んでいく。こちらの世界が変わっていく。『あなたの人生の物語』(テッド・チャン)を読んでそのように理解して、それは今度の6月の公演の、初演時の台本で書いたことだ。今日感じたことでもある。

時制の力強さは『スイングしなけりゃ意味がない』(佐藤亜紀)で知ることができる。読んでいる時にめまいがして、読み返してめまいの理由を悟った。そういえば『旅する練習』(乗代雄介)も近いようなものだ。

いやそうか。書きながら今思ったが、これらはすべて書かれるものということに自覚的なんだ。これらというのは上に挙げた創作と作者のこと。そうだった。そうだったというか、そういうことばっかり考えてしまう。

指示代名詞多いよなあ、ぼくの、こういうときの文章には。そして指示代名詞が元の語句から膨らんでいる場合が多い。と思う。元の語句を含めた「概念」を示していることが多い。これも自分の考えるときの癖なんだ。たぶん。

という感じで。今この文章でさえ、書きはじめたところからずいぶん遠くまで来てしまった。シリメツレツだ。ぼくの思考はこんな感じだ、いつも。整えなければ、いつも。

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