『人形の家』(イプセン)から。

リンネ夫人「働くことが、あたしにとってはたった一つの、何よりの喜びでした。けれども今は、まったくの一人ぽっち、恐ろしいくらい空虚な気持ちで、世の中から見捨てられたような形になっているのです。こうなってみると自分一人のために働くということは、ちっとも楽しいものではありません。そこでクログスタットさん、その人のために働くというような相手になる人と働く目あてとを、あたしのためにこしらえてくださいませんか。」(『人形の家』イプセン/矢崎源九郎訳/新潮文庫)

『人形の家』(イプセン)に登場するリンネ夫人のことば。リンネ夫人は養うかぞくに先立たれ、独り身となってノラの家を訪れる。その際、偶然再会したクログスタットに対して言ったことばが引用のもの。クログスタットというのはノラが旦那さんに内緒でお金を借りていた相手なのだけど、そのことが原因でノラは窮地に陥っていて、それをどうにか手助けしたいという気持ちと、それだけではない気持ちがリンネ夫人にはあることがうかがえるシーン。このリンネ夫人のことばは今になってずいぶん身近なばしょに響いてくるようにおもう。これまでぜんぜんはたらくということは苦ではなかったけど、今もそんなに苦ではないというか、はたらくことがそれぞれ自分のすきなことと隣り合わせになっているからだけど、ゆっくりゆっくり、誰かのためになってるということがもしあったら、それはすばらしいなあっておもうようにもなった。それは伴侶なんかがいればそうかもしれないし、子どもがいればもっとそうかも知れない。自分がこんな気持ちになるなんてなあって思いながら、あらためてこの言葉を噛みしめた。

一方でノラの出立の際に放たれることばもずいぶんと自分に近いばしょにあったようにもおもう。

ノラ「あなた方は決してあたしを愛していたのではありません。ただあたしをかわいがるということを、いいお慰みにしていらしったのです。」

8年という結婚生活を過ごしたノラが、夫であるヘルメルに言いはなったこのことばは、結婚以前には父がそうであったように、ヘルメルも自分のことを「人形」のように扱っていたと断ずる。同時に自分も3人いる子どもたちに対してそう扱っているともいう。一見仲むつまじく、浮き足だっているようにも、ずっと新婚が続いているようにも見える夫婦関係の裏側には、抑圧と鳥かごが見えて、ヘルメルが甘いことばでノラを寵愛しているようなつらなりも、ノラの自立を許さない足かせがはめられていたのだとノラが告白する。

銀行の頭取という重役に決まっているヘルメルは、あやまった人生を知らず、ひたすら輝ける道を進んでいる。だからか、何らかの罪を抱えている人間を、それも近しい人間をこう見る。

ヘルメル「罪を意識しているそういう人間は、どっちを向いても嘘をついたりごまかしてばかりいなければならない。一番親しい者の前でも、例えば自分の細君や子供の前でさえも、仮面をかぶっていなければならないんだ。」
ヘルメル「そういう嘘の空気が、家庭生活の中に伝染する病毒を持ちこむじゃないか。そういう家では、子供たちが息をするたびに、何かしら悪い事の芽を吸いこむことになるんだ。」
ヘルメル「子供の時から堕落している人間は、ほとんどみんなと言っていいほど嘘つきの母親を持っているな。」

旧友でもあるクログスタットへ向けたことばでもあるけど、聞いているノラにとっては自身にも向けられている。ヘルメルがノラに求めていたのは、けっきょくはお人形さんであって、愛でて愛でて、肝心の話は一切しない。ただ娯楽の相手としてだけだった。けっきょく、ノラが冒したことを知ったヘルメルは、上のことばと同じものをノラにぶつける。ノラの罪はヘルメルのためだったのにも関わらず。

ノラは罪を責めるヘルメルにいう。

ノラ「その法律が正しいとは、あたしにはどうしてもうなずくことができません。女には、死にかけている年とった父親をいたわったり、夫の命を救ったりする権利がないというではありませんか!そんなこと、あたしには信じられません。」
ヘルメル「お前はまるで子供のような事をいう。お前には自分の住んでいる社会というものがまるでわかってはいないんだ。」
ノラ「はい、わかってはおりません。でもこれからはよくわかるように、社会の中へはいって行ってみたいと思います。その上で、いったいどちらが正しいのか、社会が正しいのか、あたしが正しいのかをはっきり知りたいと思います。」

解説では「こんにち、婦人解放論のごときはもはや陳腐の問題」と語られているくらい大前提の大前提だということ。その中でも『人形の家』は今なお光を放つと書かれている。「婦人解放論」を展開することはたしかに古いかもしれないけど、何だか、何だか……今でもこの社会の中にはこっそりと、しっかりとはびこっていて、爪でがりがり削っても取り去れてないような気がしている。ぼくの周りにはあまり見られないんだけど、いつも身を置く、仲のいい、そんなグループとは違ったコミュニティーに接したときそれを実感する事はあり、「マッチョ・セクハラ」みたいなものって吐き気がするほど身近にあると知る。ぼくの隣にも。そういうものに対峙ときに自分はなにができるのか、とか考えてしまう。そのコミュニティーではそれが自然思考であるのか、見極めようとしてもわからないことが多い。それは単純に女性が告発する場所や存在がないからなのだろうか。

ノラのように、それでもノラはギリギリまで相手が自分と同じ思いであることを期待してけれどもダメだったから飛び出さざるをえなかった、それほど追い詰められてから飛び出したんだけど、それでも飛び出せるひとはいいかもしれないけど、外に出るための扉を見つけられないまま、過ごしていった人もたくさんいるんじゃないかって、思ったりする。もしかしたら、じぶんの母がそうなんじゃないか、と思ったりもする。それから、自分がヘルメルのようだったりなっていたんじゃないかとか、そういう怖さもある。恋をするとか、交際するということと、相手と向き合うこと。何もかも、今の自分にはむずかしい問題なわけで。友人の夫婦や恋人たちがすごいなあと思う。え、何を書いているんだろうとつぜん。

長い間、ジェンダーやLGBTQ+、性差、とかに悶々と考え込んでいるひとりとして、答えは見えないままだけど、こういうこともあり、こういうことを話し合える人々がもしいるんだったらそれはとっても嬉しいなって。突然まどマギ第2話のタイトルを引用して終わります。

※タイトル変更しました(2019年8月8日1時18分)

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