変わること、身近にあってほど遠い

 もう本は買わないぞ、と決めて外に出て、2冊くらい買って家に帰る。そんな日々を繰り返している。いい加減そろそろやめたいのだけど、調べ物とか興味とかでついつい手が出てしまう。

 先日、映画『新聞記者』を見て、どういう原作からこんな物語になったのだろうと気になって望月衣塑子著の原作本を手に取ったところ、自伝だった。この本からあのドラマを作ったのかと単純に感心したというのは決して上から目線ではないので何とぞ。原作ではいかにしてあの官房長官の定例会見での質問スタイルがはじまったのか、へのそれまでとその先が書かれていた。「記者の矜持」が書かれている一方で、支えてくれる家庭に対しての思いも所々で垣間見える。映画はまさに社会人としての矜持と一個人としての幸福と安定を天秤にかけるような作品だったので、映画制作陣もそこを作品におけるひとつのカセにしたのかなあと考えたりした。

 社会のことを考えるときに僕はもう最近はずっと『銀河英雄伝説』(田中芳樹)のヤン・ウェンリーのことを考えてしまって、彼はずっと引退して歴史研究家になりたいという夢を持ちながらも天才的な戦術能力がかえって自分の本当の夢への足を引っ張っているし、ことあるごとに上層部や権力者から誤解されたりしていき、果ては大変な目に遭わされながらも、それでも「『民主主義』だけは手放してはいけない」と固く心に刻んで生き抜いていく。うおお、ヤンンンンン!!てなる。ヤンの民主主義に対する思いと彼の処遇における塩梅が読者にとっては悲喜こもごもなわけですが(ネタバレ配慮)、まあでも1980年代から書かれたこのSF小説の折々に描かれるヤンのし烈な境遇しかり、あるいはジョージ・オーウェルの『1984年』とかオルダー・ハクスリー『すばらしい新世界』しかり、SFが描くような社会を連想したり、肉薄しているんじゃないかと思えるようなことがあったりっていうのはいいことではないことだけはたしかだ。

 大きな話はそれだけでそれに相当するエネルギーが必要だし簡単に人生をのみこんでしまうものだよな、ということを映画『新聞記者』でも考えるけれど、『銀河英雄伝説』ではやっぱり基本的には「公>私」で描かれているので、「私>公」になっている人もいるが大体それはゴールデンバウム朝だったり、ラインハルトの命を狙うあいつだったり、共和国サイドではトリューニヒトだったりしたりするわけで、そういう2つの天秤がズレている人というのは宜しくない人しかいないし、だから、「公>私」という多くの登場人物が犠牲的人生に、受け取れる人には受け取れるかもしれないなあと思う。作品の世界では「公=私」というのはある意味では摩擦のない状態なので最終的にそうなるためにどう生きるのか、という過程が物語になることが多い。現実世界はきっともっといびつだ。

 『山月記』に言及するnoteがあって、Twitterで紹介されていたのでそのnoteを読んだのだけど、大変おもしろかった。同時にどうしてか僕は高校をちゃんと卒業しているつもりなんだけど、『山月記』を読んだ記憶が全くなくて、その後も中島敦に触れる機会もなかったのでどんなものかしらと『山月記』も読んでみた。知っている多くの方には常識となっていると思うけども、あらすじでいうと、中国に李徴(りちょう)というすこぶる頭のいい男子がいて、詩を作る才能もあるんだけど交流を断って詩作を突き詰めようとしたんだけど全然うまく行かなくて、という男子がなーんか、気づいたら虎になってしまっていて、旧友と再会するというもので、まあたしかに「頭のいい」とかそういう基本設定を外して考えると恐ろしく身につまされるお話……。『山月記』を読んだことがある方はもしかしたらこんなことは思わないのかも知れないんだけど、僕はこれまで、ゾンビものの映画や本を見たり読んだりするときに、自分に置き換えて考えてて、「自分だったら下手に抵抗しないで、さっさとゾンビ化しちゃうかも、そしたら襲われることもないわけだし」とか考えちゃうタイプで、だからイキウメの『太陽』のモチーフとされている藤子・F・不二雄の短編『流血鬼』を初めて読んだ大学生のときには、「これ!」と思ったし、それからは長いこと人間VSゾンビみたいな作品では、最近だと『バードボックス』もそうだったけど、辛く苦しそうな人間を死にものぐるいで続けるなら、楽になって、みたいなことを考えていたんだけど、もっと前にここに答えあったやん……、て思った。

「己の中の人間の心がすっかり消えて了えば、恐らく、その方が、己はしあわせになれるだろう。だのに、己の中の人間は、その事を、この上なく恐しく感じているのだ。ああ、全く、どんなに、恐しく、哀しく、切なく思っているだろう! 己が人間だった記憶のなくなることを。この気持ちは誰にも分らない。誰にも分らない。」(山月記/中島敦)

 ライトノベル『ありふれた職業で世界最強』(白米良)は、いまテレビでアニメ放送もしているけど、最初に主人公のハジメは自分が自ら進んで死を選択したくなるような境遇におちいるんだけど、そのあと訪れた大きな変化によって考えをあらため、今度は生への異常な執着を見せていくんだけど、それがある人物との出会いによって、自分が人として生きたいと考える動機につながっていることを知る、みたいな描写があって、まあつまりは、孤独はいかんよね、という話か。そういうことか。いや、そうじゃなくって、プロスペル・メリメの『カルメン』に出てくるドン・ホセが気づいたら人殺しになっていたように、人には忘れてしまったらあっという間に人生が豹変してしまう「越えない方がいい一線」というものがある。越えない方がいい、なんて控えめに書いたのは、それはその人次第だから、越えてしまう人もいるし、越えないという意志を持っている人はそもそも越えないので、越えない方がいい、という書き方で十分なので、こう書かせていただいて、先に挙げた、自ら進んでゾンビ化することや、もっと身近な問題なら犯罪に手を染めることやなんか。この世に対する執着心や人間としての尊厳、それらが脅かされるということが、物語のように目の前のできごとと直結しているならそれは想像しやすいけど、距離開いちゃうと、つながらなくなったり、五感のどこかでしか感じられてなかったりするから、例えば「直ちに影響はありません」という言葉だけを抜き出すなら、そういうクッションとなる言葉は、大きなものと、僕の日常との間に、ぶあつい層を作って、層の先にある大きなものを、激変しようとしている大きなものを、ちょっと見えづらくしてしまう。じゃあそれを放っておいて、大きなものが、もうすっかり姿が変わってしまった大きなものが、目の前に突然現れたときに、例えばミヒャエル・ハネケ『愛、アムール』の老夫婦の、夫(ジョルジュ)のように、変化してしまった妻(アンヌ)を最後にああしてしまうように、やっぱり枕を押しつけてしまうだろうか、もちろんあの作品で描かれていることはいまのこの文章の文脈とはぜんぜん違うものだと思うけど、でも、目の前に自分が受け容れがたいものがあらわれたときに自分は一体どうするんだろうって考えると、あのジョルジュの姿のように、あるものをないもののようにしようとしてしまったりすることとか、そういうのが避けられるなら、避けたいと思うから、いまはすこし感度を上げておかないと、特にぼんやりしやすい自分なんかはダメなのでしょうね。

 ものすごーく抽象的なことなどをあれこれ考えながら、今日もまた無意識のうちに本を買っちゃったりなんかして。ポチったりなんかして。

いただいたサポートは、活動のために反映させていただきます。 どうぞよろしくお願いいたします。 ほそかわようへい/演劇カンパニー ほろびて 主宰/劇作、演出/俳優/アニメライター