複と単

ほとんど戯曲は誰か一人の手によって書かれているものだけど、読んでいると重奏的なものと独奏的なものに別れていく。登場人物がそれぞれてんでバラバラに生き、言葉を発するものと、どの人物も根っこの部分では同じ思想で語られる、出発点が同じもの。どちらが優れているというのもなくて、いいのだけど、たとえば独奏を主とする書き手に重奏を期待したり、その逆であったり、そういう場合は単純に噛み合わないので、すぐに一歩引いて、書き手が幾つの楽器を持っているのか、もしくは演奏者を何人用意しようとしているのかをよく確認したほうがいいと思うことがある。もちろんベストはどの場合であっても楽しむ”余裕”あるいは”知識”を持つことだと思うけど、あ、この場合の楽しむというのはfunではなくinterestingの方。curiousityでもいいかもしれない。心を開けば、自分と違った世界の見方を体験できる。ワクワクする。

他方で、バキバキに信念を持ってある一つの受容の仕方しか知らない・しない、というのもそれはそれでいい気がする。きっとその人はそれで成功している人なのだと思う。

重奏的な戯曲をーー読むということに限定するとーー読むことも楽しいし巧みだなあと思う。そう言いつつも、僕は独奏的な戯曲に出会っている時の方が心をぐーっと持っていかれることが多い気がしている。ということを近所の(とは言いつつ徒歩10分)オーケーで買い物をした帰りにふと思った。(オーケーは安いし、野菜が潤っている気がする。閉店時間が21時なんだけど24時までやってほしい)。イプセンの『人形の家』やイェリネク『光のない。』、ベケット『ゴドーを待ちながら』。とか。

いただいたサポートは、活動のために反映させていただきます。 どうぞよろしくお願いいたします。 ほそかわようへい/演劇カンパニー ほろびて 主宰/劇作、演出/俳優/アニメライター