とりとめもなく・9

<これは「演劇」に関して述べたものです|2022/09/01 17:24追記>

時々、発語に関して気になることがあります。どういうタイミングで気になるのか明確なきっかけはないのですが、「どうして”言葉を発することができるのか”」ということは、稽古中からよく考えています。
前にも書いたような気がするので、割と根底の方にある自分の考えなのですが、言葉を発することは当たり前ではない、ということはことあるごとに言いたいです。とりとめもない会話をするならともかく、あ、そう言う意味ではこのエントリも「とりとめもなく」と言うタイトルですから思うがままに書いていますが、誰かの言葉を自分が代わりに言うということの難しさは忘れずにいたいと思っています。
言い方よりもっと手前の問題で、”どうしてその言葉を声に出すのか”ということです。
自分の劇作ではほぼ当て書きなので、俳優さんの体から出るような一連の流れ、細い糸のようなものから引っ張ってきて、やがてより大きなものに突き当たる、といった方法がとれるし修正もできるので最初の糸が掴めれば、と思うのですが、既存の戯曲から立ち上げるときはどうしてるのでしょうか。

セリフがあってそのセリフをいう登場人物がいますが、その人物はそれを演じる俳優ではありません。同一化することはできても同一であることはできないということは多くの人が納得してもらえるのではないでしょうか。同一化には、一種の作意が生じるし、そうしないと登場人物でいることは難しいと思うのです。あるシーンでセリフをとちった後に俳優の素が見えてそこでグッと心を掴まれたりする経験は多くの人にあるのではないかと思うのですが、つまりそういうことで、「間違える」という概念が存在する世界であることを、実は演じ手も観客もわかっていて、それを前提として「作り事をやります」「作り事を見ます」という状態で劇場にいます。で、僕はできればその前提/約束をできるだけ無くしていきたいのです。ということのために稽古の序盤の時間をたくさん使っている気がします。何でもないようなことですが、自分にとっては大事なプロセスなのだなあと思います。

俳優が自分の体を使っていることを前提にすると、身体の持つ文脈は無視しても必ずついてくるものですし、それを断ち切って演じることに対して自分はあまり好奇心を持てないということもあるのかもしれません。
ここに大きなアレがあるのかもしれないです。アレが何なのかもわかっていませんが、「ウソくさ」と自分が思わないでいられるように、どうにかその糸口を見つけていく。それはとても大事なことのように思います。
自分が演出として、誰かと一緒に創作をするときは、そういうふうに意識を配れるのですが、他方、自分が俳優となると、あらゆることで悩んでしまってひたすらトライアンドエラーです。だから、僕の作品に出てくれている俳優さんを本当に尊敬しています。

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