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#34.サンスクリット語

言葉を教えるときにはその言葉を死んだ言葉として教えてはいけないと思う。つまり、言語の生きた側面を無視して格変化の勉強やテキストの丸暗記に費やすべきではないと思っている。言語のコミュニケーションの側面を忘れてはならないと思うのだ。

このような朗読や暗記を重点とする教授法は古典語と呼ばれる言語の授業でよく見られるものである。そりゃそうだ。だって話す人がいないんだから挨拶とか会話の練習をするなんて無駄だというのが古典語学者の言い分かもしれない。しかしながら、言語は生き物なのだから、恐竜学者が骨の研究に時間を費やすのは生きていた頃の恐竜がどのような生態でどのような特徴があり、他の生物とどのような関係があるのかなどを調べていくのと同様に、古典語の先生や研究者はテキストばかりではなく古典語が生きていたときの様子を生徒に垣間見せてほしい。

サンスクリット語は古典語の代表格だ。ただ私は学生の頃、この言葉の勉強をあきらめた。というのも、格変化表だらけの教科書やそれをひたすら暗唱する授業に嫌気がさしたからである。私はサンスクリット語のような複雑極まりない言語がどのようにしゃべられていて、そして古代インドの文化圏においてどのような世界観や文化を支えることに貢献していたかに興味を持っていた。なのでサンスクリット語に興味を持ってはいたものの格変化しかやらないので、サンスクリット語へのアクセスを断念したのである。

サンスクリット村から

ところでサンスクリット語はインドの二二の「公認された言語」の一つだ。この公認された言語を規定しているのは憲法の後に後続する" Schedule"と呼ばれる箇所で、特に言語が規定された箇所は"8th Schedule"、「憲法第八付則」と日本語で訳される箇所である(1)。インドは連邦国家であり、国家の公用語としてはディーヴァナーガリー文字で書かれたヒンディー語と英語となっている。一方で、インドは様々な州に分かれ、各州ごとに有力な言語が存在している。例えば、タミル・ナードゥ州ではタミル語、グジャラート州ではグジャラート語といったようにである。

しかしながら、例が悪いかも知れなかったが、サンスクリット州というものがあるわけではない。しかし、インドの「第八付則」ではサンスクリット語も公認された言語として登録されている。それでは、いったいサンスクリット語話者は現代のインドのどこにいるのだろうか。

BBCではかつてカルナータカ州の「サンスクリット村」の取材をしている。

ただし、結論からいえばこのニュースでは「この村で母語話者としてサンスクリット語を話す人物がいる」という記述はない。そのため、サンスクリット語を母語ではなく第二言語などとして話す人はいるかもしれないが、母語話者の存在は疑わしい。同ニュースによれば「インドの1%以下の人に話され、僧侶が宗教行事でサンスクリット語を使用する」らしいが、インドの人口が十億だとしても話者がその1%に満たないとしても、死語にしては簡単に考えても話者が多すぎではなかろうか。

ここは推論だが、この規模の数の話者になるということは非母語話者の人口の割合が多いのではないかと思う。例えばサンスクリット村のマトゥール(Mattur)でも地元の学校の四〇〇中一五〇人がサンスクリット語を学んでいるとしていることや一九八〇年代までこの村で話されている言葉はカンナダ語だったという記述がある。また、村人はタミル語話者だったりサンケティ語などのドラヴィダ系の言語を話していることが窺われる。そのため、現代インドにおけるサンスクリット語の役割としては教養としてのサンスクリット語と異なる民族・言語話者間の族際語としてのサンスクリット語が主な役割になるのではないか。

サンスクリット語の文法

しかし、この言語は本当に難しい。言語の規則は複雑ではないが、語形変化が多く覚える量が大量にある。文法性は三つあり、数も単数・複数のみならず双数まである。格も七つあるので、例えば一つの形容詞が理論上、格と数に応じて二一の形に変化するということになる。コーカサスの言語やフィンランド語やハンガリー語などのウラル系言語に比べれば少ないが、印欧語系言語の中では群を抜いて変化する数が多いといえるだろう。

個人的にロジカルな印象を持ったのはサンスクリット語の関係説の作り方だ。ウルドゥー語のよう現代のインド語派もそうなのであるが(例外あり)、「関係節を作っていますよ」というマーカーと「これが関係詞が修飾している単語ですよ」という二つの単語で関係節を表現する。例えば英語では「あなたは男の人を見る、そのところの男の人は歩いている」というような言い方をするが、サンスクリット語では「そのところは歩いている、その男の人をあなたは見る」のような言い方をする。たまに「歩いている男の人をあなたは見る」と用言を変化させる日本語に近く感じることもあるが、サンスクリット語はやや違う形で関係節の意味を処理している。

単純な例で言うと:

यो गच्छति तं नरं पश्यसि (yo gacchami tam naram paśyami)  (2)

ここでまず"yo"が先頭に来る。まずこの"yo"が「この後には関係節が来ますよ」と示し、次に関係節の内容が来る。そして"tam"が来て、「次に来るのが主節ですよ」そして「"yo"が修飾している単語は男性形単数の対格ですよ」という情報を示すのである。

生きたサンスクリット語を体得すること

ところで『現代ラテン語会話』と言う少し古い本がある。これはラテン語を現代で使うために書かれた本の日本語訳で、古典のテキストを読むために使われるラテン語の語学書としては異色の会話集である。

会話集なので別の教科書や文法書でラテン語を勉強しないとこの教科書を実用化することは難しいが、現代世界でラテン語を使用しようとする心意気がたまらない。

二〇二一年になるが白水社からサンスクリット語の教科書が出版された。

面白いことにこの教科書の姿勢はサンスクリット語を死語ではなく生きた言語として扱っていることなのである。そのため、写真や映画館、ショッピングモールなど古典言語のテキストではみかないであろう単語が結構出てくる。著者の石井先生は読みの勉強の研鑽を続けて文献読解は難なくできるようになったが自己紹介すらサンスクリット語でできないため、自分の語学力に対して懐疑心を持っていたらしい。そして最終的にヴァーラーナシーに留学し一流のサンスクリット語の使い手との交流を通して、「読む」だけではなくすべての能力が必要なのだと確認に至ったとのこと(3)。やはり生きた言語としてサンスクリット語を扱わないと真に体得したといえないのであろう。

先生がサンスクリット語の読む・聞く・話す・書くと言う各能力を鍛えるためにインドで三年間費やしたとのことなので、日本で話し相手すらいない状態でサンスクリット語の全範囲の語学能力を鍛えることは困難だと思うが、石井先生並みのレベルになれたらな、と切に思う。

参考文献

(1)広瀬 崇子 (著), 近藤 正規 (著), 井上 恭子 (著), 南埜 猛 (著), 広瀬崇子 (編集), 近藤正規 (編集), 井上恭子 (編集),『現代インドを知るための60章 エリア・スタディーズ』Kindle、「35 .言語とアイデンティティ」 No. 2407/4184 58%
(2) https://www.learnsanskrit.org/nouns/compounds/clauses/
(3) 石井裕『ニューエクスプレスプラス サンスクリット語』白水社(2021) p.003

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