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人類はどうして動詞を人称変化させたのか

本当にどうしてなんでしょうね...?

日本語では敬語や尊敬語は別として、動詞が人称に合わせて変化をすることがありません。この意味で、韓国語でもモンゴル語でも動詞が人称変化をすることはありません。中国語やベトナム語もそうですね。アフリカにもそのようなタイプの言語があることが知られています。ウォロフ語もそうだった気がします。

一方でヨーロッパや中東の言語の動詞は多くが、単数・複数に合わせ、下記の人称に合わせて変化します:

①一人称(私を指し示すとき)
②二人称(君を指し示すとき)
③三人称(私でも君でもない人やもののとき)

例えばウラル諸語に含まれるフィンランド語の"puhua(話す)"の現在形は下記のように人称変化します:

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また、テュルク諸語のウズベク語の"qilmoq(する")の現在形は下記のように変化します:

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また、非常に面白いことにモンゴル国内や中国の内モンゴルで使われるモンゴル語(ハルハ・モンゴル語、チャハル・モンゴル語)には人称変化はありません。しかし、なぜか他のモンゴル諸語には人称変化があるようです。

例えばロシア国内にあるブリヤート共和国のブリヤート語には人称変化があるとのことです。どうやらカルムイク(オイラト)語も人称変化がありそうですが、資料が少ないため詳しくはわかりませんでした。

下記はブリヤート語の""бэшэнэ(書く)"です。

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参考:Burlang.Nom Учебник("https://nom.buryat-lang.ru/verbs-present-tense")

このような文法事項は普段、関東弁や関西弁をしゃべっている私たちからすると、全く無駄な文法機能のように思えます。しかし、一方で人称変化がある言語を母語として使用する人たちにとって、人称変化がない言語を初めて勉強すると「なんでないの?」という印象を受けるようです。

この違いについて、個人的には「主題優勢言語」と「主語優勢言語」の度合いによって異なった進化をしたのかなぁと想像することがあります。つまり、「コンテクストに依存して主語を明確にする必要性が低い」のか「主語を明確にしてコンテクストへの依存する必要性が低い」のか、その度合いにより異なった指向性を持ったのかのだろうか、ということです。

人称の構造や形も色々ありますが、下記は私のトンデモ説なので本気にしないでください。私はテュルク系の言語やフィンランド語は後付けで人称変化をするようになったのだろうかとぼんやり考えています。特にリファレンスもないので、立証は難しいですが。

例えばウズベク語は人称代名詞を動詞の語尾につけて人称の代わりとしたような印象を受けます。ウズベク語の人称代名詞は上から"men","sen","u","biz","siz","ular"です。三人称を除き、どことなく人称語尾に形が似ていませんか。もともとつけていなかった人称の語尾を人称代名詞を添えて使うようになり、そのまま人称接尾辞へと発展したのではありませんか。

またフィンランド語は印欧語から強く影響を受けたので、「人称変化システムも借用したのか」と思うことはあります。ただ、シベリアに住むウラル系の言語は人称変化するため、印欧語からの借用説は望み薄だと思っております。

ただ独自に発生したにしては近隣リトアニア語(cf. "kalbėti"の現在形:"kalbame", "kalbate")などの非ウラル系言語と似ているときがありますし、その可能性はないと言い切ってしまうのもためらいがあります。

なんで人類は動詞を主語に合わせてわざわざ変化せようとしたのでしょうか。そして、片やなんで動詞を変化させようと思わなかった人たちもいたのでしょうか。謎です。

それではまた!

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