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ルビー・ザ・キッド Last Bullet


 日比谷線広尾駅の改札を出て雨上がりの空を僕を見上げる。
 濡れて光る横断報道を大勢の人たちが渡っていく。信号が変わって車が流れ出し路面にきらめきの波紋を作る。それを見ながら券売機の脇に立ち、胸をときめかせて僕は待つ。
 待ち合わせの十六時ぴったりにプラチナシルバーのリムジンが滑るようにやってくる。歩道に寄せて静かに止まり、後部座席のドアを開く。ローファーのつま先を光らせて甲斐美猟先輩が降りてくる。
「おまたせ」
 去っていくリムジンを見返りもせず歩み寄ってきて先輩が言う。
 青みがかった短めの黒髪、陶器みたいに張りつめた頬、瞳は黒く艶やかで、鼻はすっきりと高く尖り、唇は桜色に萌えている。
 グラマラスとスレンダーとデリカシーを少し低めの背丈の中で完璧に調和させている、甲斐グループ会長令嬢にして美術部副部長の美猟先輩が、道行く人たちの目を奪って、僕の鼓動を高鳴らせる。
「行きましょう」
 そばに立って先輩が微笑み、肌の匂いと髪の香りがふわりと届いて僕を包む。陶然としつつ僕は隣りに並び、広尾橋の横断歩道を渡って、有栖川公園の方へ向かう。
 今日は二人で美術部をサボって元麻布にあるギャラリーへ行く。先輩の新作にインスピレーションを与えた作家の展示をやっているので、一緒に見てイメージを共有してほしいと誘われたのだ。
 いま僕は先輩とつきあっていて、来週から絵のモデルをやる。美術室でなく彼女のマンションに放課後通ってポートレートを描かれる。

 美猟先輩に告白してからあっという間に一週間が過ぎた。
 絶対振られると覚悟していたのに、即答でOKの返事をもらい、バットで殴られたようなショックを受けて僕はその後の記憶が飛んだ。気がつくと夜の十時をすぎてて自分の部屋のベッドで正座していた。何と言って先輩と別れどうやって家まで帰ってきたのか、まったく覚えていなかった。
 喜びもときめきも感じなかった。ありえない夢を見た気がした。自分が自分でないようだった。
 振られたことがあまりに辛くて記憶を捏造したかもしれない───そう思って翌日の学校を休んだ。頭が痛くて吐き気が酷くて悪寒がするけど病院へは行かない、寝てれば治ると言い張った。父さん母さんはあれこれ訊かずに、ゆっくり休め、と言ってくれた。僕の仮病を許してくれた。
 でも美猟先輩は許さなかった。
 二日後の放課後に見舞いにやってきて、部屋へ上がって僕と向き合い、母さんがお茶を出して下がると同時に、僕を平手でひっぱたいた。それから頬を両手ではさみ、目の奥を覗き込むようにして言った。
「わたしと、わたしを惹きつけている、あなた自身から逃げないで」
 言われてぶわっと涙が溢れ、告白した時の記憶が戻った。
 夕陽に染まった美術室の奥で、先輩はひとりイーゼルの前に立ち、ペインティングナイフを走らせていた。
 僕は声をかけ、先輩に近寄り、震えながら思い切って伝えた。
「去年の始業式で、見かけた時から、ずっと先輩が好きでした───つき合って・・・くれませんか?」
 黒く艶やかな二つの瞳がオレンジ色の光を弾いた。
「うん」
 と桜色の唇が言った。
「・・え」
 耳を疑った。
「いいよ」
 重ねて先輩が答えた。
「はい?」
 思わず訊き返した。
 先輩がパレットとナイフをサイドテーブルに置き、僕に向かって近づいてきた。夕日の光の束を抜けて目と鼻の先で立ち止まった。十センチも離れていなかった。ヤバい感じに呼吸が速くなるのを抑えることができなかった。
 す、
 と先輩がつま先立ちをし、僕の頬に唇を当てた。冷たくて温かくて柔らかかった。頭の芯がとろりと溶けた。
 一歩離れて先輩が言った。
「わたしも・・・初めて見た時から、あなたがすごく気になってた・・・いつ伝えようかと思っていたの」
 ほとんど物理的な衝撃を受けて僕はぐらりとよろめいた。キヒイィィィンと強烈な耳鳴りがして景色が滲んで遠ざかった。
 マジかよ?
 これって現実なのか?
 この後、何を言って、どうすればいい?
 開けてはいけない箱の蓋がゆっくりと開くイメージが浮かんだ。箱の中は闇だった。覗くのがすごく怖かった。
 そして僕は唐突に、自分が先輩に振られるために告白したことに気がついた。自然に始まる二人の関係を無茶な告白で断ち切ろうとしていたのだ。
 それほど甲斐美猟という女の人が怖かった。
 狂おしく求めていたけれど、心の底から恐れていた。
 先輩とつき合うことで、とんでもなく変わってしまう自分の姿が、一年前に出会った時から僕にははっきり見えていたのだ。
「・・・あっ」
 と小さく声を上げて僕は先輩に背を向けた。
 ぽかんとした先輩の顔が視野を流れた。作業机や椅子にぶつかりながら僕は美術室を飛び出した。切れ切れに叫び声を上げて廊下を全力疾走した。
 思い出した───何てことだ。
 恋が叶ったことにビビって、僕は先輩の前から逃げ出したんだ!
「ごめんなさい・・・ごめんなさい、ごめんなさい・・・何か怖、怖・・・ものすごく怖くて・・・ああくそ、もう・・・どうしてだろう」
 ぽろぽろと涙を流しながら僕は先輩に謝った。もうあと四、五発ぶん殴られても仕方がないと覚悟した。
 先輩はもう殴らなかった。
 僕を抱きしめ、ささやいた。
「・・・わたしも怖い・・・あなたとつき合ったら、取り返しがつかないことになるって感じてるから・・・」
 先輩の体が震えていた。僕の体から力が抜けた。
 ああ、そっか───同じだったんだ。
「だから確かめたい・・・これが何なのか、どうなってしまうのか、知りたいの」
 僕の左耳に唇を押し当てるようにして先輩が言った。
「怖い、を一緒に突き破って、取り返しのつかないところへ行こう」
 ぱつん、
 と頭の中で太い弦が切れて、恐怖が消えた。
 先輩への狂おしい想いだけになった心で、僕は答えた。
「はい───行きます!」
 こうして僕は先輩と彼氏彼女の関係になり、その勢いで新作の絵のモデルになることも引き受けた。二人の間にある激しいものを絵にしたい、と熱っぽく先輩に迫られて、本当にそんなことができるのなら見てみたいと思ったのだ。
 次の日、三日ぶりに学校へ行くと、

『甲斐美猟が美術部の後輩に告られ、つきあい始めた』

 という誰が出したか分からないメッセージ(どうやら美術部員の誰かに現場を盗み撮りされてたらしい)が、先輩と向き合って立ってる僕の写真つきで拡散されてて、クラス中の生徒から僕は質問攻めにされてしまった。昼休みには従兄弟の近藤ハルまでが隣りの校舎からやってきた。
「これマジ?」
 屋上に僕を連れ出して、スマホで例のメッセージを見せながらハルが訊いた。うん、と僕は頷いた。呆れた表情でハルが言った。
「バカじゃんお前───甲斐美猟って学校の外で遊びまくってんだぜ、知らねえの?」
 小学生から弓道をやってるせいかハルはすごく男前な性格で、年下なのに兄みたいな態度をずっと僕にとっている。短いくせっ毛、整った顔つき、すらっと引き締まった体躯をしていて、男子たちからは一目置かれ、女子たちの人気は絶大だ。
「女見る目ねぇなぁ。遊ばれて捨てられんのがオチだぞ」
「ほっとけよ」
 僕はじっとハルを睨んだ。色素の薄い茶色の瞳でハルがまっすぐ見つめ返した。
「・・・ふーん・・・そっか、本気なんだ」
 スマホを制服のポケットにしまい、もたれていた金網からハルが離れた。
「ま、痛い目見んのはマリオだし、従兄弟ってことで色々訊かれんのが俺はウザいだけだから。あんまりしつこく絡んでくる奴には、マジだって言っとく。そいでいいよな?」
 醒めた口調でそれだけ言って出入口へとハルは向かった。
「悪いな、ハル」
 慌てて背中に声をかけると右手を上げてひらひら振った。
 あいつなりに心配してくれてんだな、と去っていくハルを見ながら思った。上から目線で偉そうだけど、根は優しくて良い奴なのだ。
 午後の休み時間をどうにかやり過ごして放課後を迎え、なるたけひと目につかないように遠回りして美術室へ向かった。でも、技術棟への渡り廊下で武市先生に出くわしてしまった。
「聞きましたよ草薙くん、三年の甲斐美猟さんとおつき合いしてるんですって?ツ・メイビィ・ナン・オブ・マイビジネス・バッ、考え直したほうがいいと先生は思います!」
 真正面から踏み込まれてしまって、うわぁ、と僕は苦笑する。
 武市来未子先生は二十代半ばで、緑がかった黒髪をシニヨンにまとめ、紺系の地味なスーツをぴっちり着込み、黒縁の硬そうな眼鏡をかけた、真面目すぎる性格の英語教師で、アメリカ生まれで白人の血が入ってて、よく見ると美形でスタイルもよく、ハーバード大卒という綺羅綺羅しい学歴があるにもかかわらず、私立高校の非常勤講師に甘んじている謎の人だ。
 人との距離感が取り方が下手で、やや面倒くさいキャラクターではあるけど、教え方が上手くてひたむきなので、生徒からはそこそこ人気があった。
 僕も先生の授業は好きだ───ことあるごとに僕の(何故か僕だけの)プライベートに立ち入ってこなければ。
「甲斐美猟さんは普通の女子ではありません。生きてる世界が違うんです。甲斐グループ会長のお祖父さまが定めた高級官僚の婚約者がいて、その上で外国人が出入りするクラブの経営者と交際しているんです。他にもそれに類した報告がPTAから頻繁に上げられています。イフ・ユーゲッ・インボルブド・ウィズ・サッチア・ディスターブド・ウーマン、草薙くんは酷いダメージを受けて、ドロップアウトしてしまいます!」
 顔を近づけ、切実な声でまくしたててる先生の姿を、通りかかった生徒たちが目で追いながら聞いていた。スマホで撮ってる奴もいた。
 噂が二重になっちゃうな、と思いながら僕は言った。
「全部知ってます」
「へ?」
「知ってて、その上で告ったんです」
 大きな目をさらに大きく見開き、武市先生が僕を見つめた。ウザくもあり可愛くもあるその仕草に、ちょっと意地悪な気持ちになって僕は続けた。
「いっつもぐいぐい来ますけど、もしかして僕のこと好きなんですか?」
 五秒くらいのタイムラグをおいて先生の顔が真っ赤になった。耳たぶから首まで赤く染まった。
「ワッワワ、ワラユ・トーキン・アバウ!」
 パニクってる武市先生にお辞儀をして僕は歩き出した。
 忠告ありがとうございます。でも先輩と約束したんです───取り返しのつかないところへ、二人で一緒に行こうって。

平井耀ヒライアカル絵画展~赤い荒地の果ての花~』

 というポスターが、有栖川公園を抜けたところに建つ雑居ビルの告知スペースに貼られている。
「ここ」
 と美猟先輩が言って、その脇にある階段を降りる。ポスターにある荒野の絵に目を引かれながら僕も続く。
 ギャラリーは地下二階にある。入場料を払って入る。平日の夕方にも関わらずけっこう人が入ってるみたいだ。入り口の横に置かれているパンフレットを取って目を通す。
 平井耀という画家は二十代半ばの男性で、二十歳でアメリカに移住してから、ナバホ族の聖地であるモニュメントバレーをモチーフにして制作しているらしい。プロフィール写真の彼は真っ黒に日焼けし、ほとんどネイティブの人にしか見えない。
 何年も荒野で絵を描いてるとこんなふうになるのかな、と思いながら僕はパンフレットから目を上げ、展示スペースを見渡す。
 紅・赤・朱───濃厚なアカに満ちている。
 五百号から五十号までの大きさの、四十枚くらいのすべての絵に真っ赤な荒野が描かれてて、それが押し寄せてくる圧力が半端ない。
 ガツンとやられて突っ立っている僕にちょっと目配せしてから、美猟先輩が展示の後半の方へ歩いていく。何度も来ていて目当ての作品がもう決まっているらしい。ひゅう、と僕は息を吐き、昂ぶった気持ちを整えて一枚目の作品から見始める。
 真っ赤な岩の間に転がる真っ白に枯れて乾いた木、赤土に半分埋もれて空を見ている牛の頭蓋骨、地平線に向かって折り重なるように連なっていく台形の山───どの絵も現地にイーゼルを突き立てノーデッサンで直描きしたそうで(パンフにそう書いてあった)、迫ってくる力が異様に強い。絵っていうより直接その場につながっている窓みたいだ。
 十枚目くらいからストレートな静物画や風景画ではなくなり始め、たくさんの動物や人間の魂が、岩肌や木の幹に張りついていたり、群れをなして空を飛びかっていたり、うねって地を這いずったりしているビジョンがどんどん乗ってくる。いろんな鳥の魂が混ざり合って羽ばたいていたり、頭や角がいくつも生えたバイソンがこっちを見ていたり、足だけの馬が何十頭も雪の荒野を駆けていたり、岩山の壁の中を川のように巨大なガラガラヘビが移動してたり、乾ききった荒れ地の石から角のあるトカゲが孵化ふかしていたり、体の透き通ったナバホの人たちが満天の星空を飛び回ってる幻想的なビジョンが描かれている。
 夢中でそれらの絵を見ながら、自分が果てしなく体の外へとはみ出していくように感じていた僕は、次に続く自画像の組絵でその感覚を逆転させられる。岩のような枯れ木のような地面のようなカラスのような牛のような馬のような蛇のような蜘蛛のような、ナバホの土地の自然と生き物をコラージュするように重ね描きした「顔」の連作を見ることで、今度は世界が裏返って自分の中にたくし込まれたような、めくるめく感覚に襲われる。
 興奮で胸を高鳴らせたままパーテーションのコーナーを曲がった僕は、そこで展示のクライマックス───三枚の大きな絵に辿り着く。
 青い空と赤い大地に挟まれ、しなやかな筋肉を浮き彫りにして立ってる黒い馬と、その馬に寄りそう白い肌の女を描いた、四百号の一枚目。
 壁面をオレンジに光らせた台形の岩山の頂上で、背中から吹き出す青白い炎を翼のようになびかせながら、沈む太陽を見つめている褐色の肌の男を描いた、五百号の二枚目(男の右手には紅色の細長い炎が握られていて、それは短剣のようにも、ロングバレルのリボルバー拳銃のようにも見える)。
 これまでの作品とはまったく異なる、ヒロイックな雰囲気の二枚の大作に熱く心を揺さぶられた後、最後の一枚の展示の前で、雷の直撃をくらったように僕は動けなくなってしまう。
 それは、一面の赤黒い雲間からわずかに水色がのぞいている空をバックに、真っ赤な岩を割って茎を伸ばし、鮮やかに咲いている紫の花の絵で、タイトルはこの個展と同じ『赤い荒れ地の果ての花』だ。
 一周りしてシンプルな風景画に戻ったその作品に、この画家のすべてが込められているのが分かり、たったひとつを活かすために他のすべてを削ぎ落とし、底なしの愛情と残虐な暴力を奇跡的に共存させられた一瞬を、生で目撃しているように感じて、僕ははらはらと涙を流す。
 いつの間にか先輩が隣りに並んで立っていて、静かな輝きをたたえた瞳で僕を見つめながら言う。
「この絵をあなたに見てほしかった───わたしとあなたが怖がりながら求めているものが描かれてるから」

 もう一度すべての作品を見直してからギャラリーを出る。十八時を過ぎていてほとんど夜になっている。
「お腹すいたね。何か食べよう」
 有栖川公園の木立の歩道を歩きながら先輩に言われて、僕は生返事を返してしまう。頭の中で絵のヴィジョンがぐるぐる回り続けてる。
 広尾橋の交差点を渡って商店街に入ったところで、紫の花の絵のインパクトが強烈にフラッシュバックして、周りにあるすべての物や人───街灯や電飾や店の看板や、ショーウインドゥの中の商品や、明るいカフェのカウンターで注文待ちをしている客たちや、駅へと向かって歩みを進める大勢の通行人たちが、気の遠くなるほどの可能性を削り落として厳選された『たったひとつ』の存在に見え、それらを選び抜いた愛と暴力の膨大な体積を感じ取って僕は立ちすくむ。
 ああ、そうか。
 そういうことなのか。
「・・・わかった」
「?」
 先輩が振り返って立ち止まる。
 人の流れを両脇に裂きながら僕はつぶやく。
「・・・僕らが怖がり、惹かれてるのは・・・これから起きることじゃなく・・・もう終わってしまってることなんだ・・・」
「どういうこと?」
 小首をかしげて先輩が訊く。
 言葉に詰まって僕は黙る。
 起きると同時に夢の内容をすっかり忘れ果ててしまい、ただ「見た」という経験だけが抜け殻みたいに残されてる───そんな感覚を上手く言葉にできずに僕は途方に暮れてしまう。
 恋い焦がれた相手に拒絶され、もてあそばれ、傷つけられて、ズタボロになりながら最後にその人を手に入れたけれど、引き換えに世界中を敵に回した───ような気がする。
 小さな願いを叶えるために手に入れたとても大きな力で、数千数万の人間の命を踏みにじってしまった───ような気がする。
 親にいたぶられて成長し、暴力衝動を押し殺しながら、良い子の仮面をぴっちり被って生きていた───ような気がする。
 とろけるような快楽を貪った後、凄まじい痛みに延々と苛まれた───ような気がする。
 長いあいだ地の底に閉じ込められたり、空の高いところに浮かんで下界を眺めていた───ような気がする。
 それら透明な経験の痕跡は完全に僕から切り離されて、その存在を感覚的に知ることだけが許されてる───ような気がする。
 そういった自分のぶっ飛んだ体感を、先輩に伝えようとして伝えられずに絶句し、人混みの中に突っ立ったまま途方に暮れてる僕の姿を、遠く離れて俯瞰で見ている別の僕がいることに僕は気づき、マトリョーシカみたいに自分の中に自分が入ってる感覚が、凄まじいスピードでループし始めてびっくりする。
 うわうわうわ。
 何だこれ。
 他人や物や街並みと自分の区別がつかなくなり、世界が自分になってしまって、意識が吹っ飛びそうになる。
 あっ、死ぬ。
 いや───消えてしまう。
 そう思った刹那。
 ぎゅっ、と何かが、何かを握る。
 そこから空と、地面と、街並みと、ビルや車やバイクや自転車と、大勢の通行人たちと、美猟先輩が、逆転再生するように一瞬で僕から切り分けられて、夕暮れの広尾の商店街の雑踏の流れが戻ってくる。
「今・・・いなくなりかけてた」
 僕の右手の人差し指を、左手で握ったまま、美猟先輩がつぶやく。
 例えじゃなく本当に消滅してしまいそうだった、というニュアンスが切実な口調から伝わってくる。
 過呼吸っぽくなってる息を整えながら僕は言う。
「・・・・・先輩も・・・・僕も・・・花なんだ・・・・・赤い荒れ地に・・・・一輪だけ咲いてる、あの絵の花・・・・」
「・・・・」
「あの花を・・・咲かすために・・・・・あそこにあった、すべてのものが・・・・・壊され、殺され、犠牲にされた・・・・僕らだけじゃない・・・すべての人が・・・荒れ地で咲いてる花なんだ・・・・そのことをすっかり忘れ果てて・・・ここで生きてて・・・出会って・・・死んでる・・・・」
 先輩が目をみはり、唖然とした表情で僕を見つめる。
 両脇を過ぎていく人たちが訝しげな表情で僕を見る。同じ学校の女生徒たちがクスクス笑いながら通り過ぎる。
 ああ、くそ───こんなこと言ったって、何も、何ひとつ伝わらない。
 もどかしさで苦しくなって目をそらす。
 先輩が指から手を離す。
 僕の右手を握り直し、強く引っ張って歩き出す。
 つんのめるようにして前へ進み、慌てて彼女の隣りに並ぶ。横顔を見てハッとする。
 瞳をきらきら輝かせ、頬を淡く紅潮させて、僕と同じかそれ以上に興奮している。ときめいている。
「まったく同じことを、あの絵を見たとき、わたしも感じた」
「・・・え?」
「だから、すごく、すごく嬉しい」
 先輩が僕を見て鮮やかに笑う。その笑顔が本当にあの絵の紫の花のようで僕は見惚れる。
「あなたを描きたい。今すぐ。部屋に来て」
 え、え。
 部屋。
 うそ。
 マジで?
「お店でごはんは?」
 驚きすぎて、ものすごく馬鹿なことを僕は訊く。
 先輩が吹き出し、あははと笑う。
「ケータリング取るよ。それでいい?」
 僕は頷く。顔が熱い。恥ずかしい。上げられない。
 先輩がまた手を握り直し、指と指を深く絡める。
 恋人つなぎ───ドキッとして顔を見る。
「朝まで描くから、泊まっていって」
 目線がぶつかると同時に涼やかな声で先輩が言い、二人の関係が今夜で一気に進むことを知って、瞬間的に僕は勃起する。そして先輩もそういう心と体の状態になってることを感じ取る。
 ああ、始まる。
 本当に。
 今夜で僕の人生は変わる。
 取り返しのつかない自分になって、後戻りのできない世界へ入る。
 先輩のまだ影になってる部分───クラブの経営者、官僚の婚約者、もっと他にいるかもしれない大人の男たちとの関係が、武市先生やハルの言うように、暴力的なダメージを僕にもたらすかもしれない。住んでる世界が違いすぎて、一生消えないトラウマを心に負うことになるのかも。
 それでもいい。構わない。
 怖い、を突き破って行けるところまで、このひとと一緒に僕は行くんだ。
 そんなことを狂おしく考えながら、ばくばくと心臓を鼓動させ、震える息を短く吐いて、商店街の夜空を僕は見上げる。
 そしてそこにありえないものを見る。
 二つの巨大な歯車が、噛み合って回りながら浮かんでる。
 は。
 えええ───何だあれ?
 瞬きする。消えない。目を凝らす。
 でかくて、ごつくて、美しい。
 満月の十倍は軽く超えてる大きさで、歯の造形が恐ろしく凶暴かつ複雑で、水晶みたいに透き通って鋼みたいに光ってる。
 特殊なかたちの飛行船?
 プロジェクターを使って映写している何かのイベントのアトラクション?
 平井耀の絵にメンタルをやられた僕だけに見える幻覚なのか? 
 呆然と口を開けて見つめていると、二つの歯車を囲むようにして、古代の絵文字のような模様が空中にたくさん現れる。それは文章を形作るかのように歯車の真下で整列する。
 読めない。分からない。何だろう。
 僕はさらに目を凝らす。
 するとその文字列を読み上げるかのように、頭の中で声が響く。

『どんな憎悪も、悪意も、憤怒も、怠惰も、腐敗も、
飢餓も、不安も、恐怖も、収奪も、支配も、暴虐も、
生きてここにいることを、
味わい尽くすための娯楽だ』

 ひうう、と僕は息を呑む。
 頭の中の声がさらに言う。

『生成と破壊の車輪を回せ』

 ぶるぶるぶるぶる。
 うわああああ。
 激しく体を震わせながら、その言葉コマンドの響きに反応したように、心の底から湧き出してきた衝動───自分でも無自覚だった激しい欲望を、そのまま僕は口にする。

 僕はこのひとに、食べられたい。
 食べられて、このひとの中にある、美しくて禍々しい命の土台に、僕の名前を、生きてる跡を、深く深く刻みつけたい。

「いいよ」
 ささやかれて僕は我に返る。
 いつの間にか天現寺の歩道橋の上にいる。
 広尾の商店街を抜けたあたりから記憶が飛んでしまってる。
 あっ、と思って空を見上げる。
 半透明の歯車は浮いてない。文字列もない。
 消えてしまった。
 数秒呆然とした後に、たったいま自分が言ったことを思い出し、初めて知った自分の願望のあまりのよこしまさに、僕は慄く。
 すぐ隣りで美猟先輩がじっと僕を見つめてる。漆黒の瞳の底が光って頬が桃色に上気している。
 先輩が一歩前に出る。
 腕がするりと僕の首に回り、胸が胸に押しつけられる。
 あ、あ、あ、
 と開いた口を桜色の唇にふさがれる。
 立体交差の下を流れるヘッドライトの光の川が、ビルの壁面に乱反射して二人の体を柔らかく照らす。
 先輩がそっと唇を離し、腕を離して、僕から離れる。震える息を吐きながら背筋に響く声で言う。
「あなたの跡を、わたしに、いっぱいつけて」
 輪郭が光るように浮き上がってる先輩の顔は、妖しく、強く、艶やかで、凶々しいほどに美しい。
 ばくん、
 と心臓が激しく脈打ち、激しいデジャブが僕を襲う。
 これとまったく同じことを、確かにかつて経験した───そう思った瞬間、僕の中で空白の記憶の輪郭が生まれる。それはリボルバー拳銃の形をしている。平井耀の絵の中の男が持っていた炎とよく似てる。
 先輩がスマホでリムジンを呼び出し、天現寺の交差点まで来るように伝える。立体交差の手すりから乗り出し、路上を見下ろしながら僕らは待つ。やがてヘッドライトの流れの中からプラチナシルバーの車体が現れ、歩道橋の降り口の横に滑らかに寄せて停車する。手を繋いで降り口へと続く長いスロープを僕らは歩く。拳銃の形をした空白が、鼓動に合わせて疼き出す。

 どくん、どくん、どくん───。
 始まる、始まる、始まる───。
 世界を潰して手に入れた、一輪しかない花が咲く───。

 風に吹かれて美猟先輩の髪が黒い炎みたいに舞い上がり、不在の拳銃の不在の撃鉄が、がちり、と上がる音を僕は聞く。

<終>

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