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2、江戸幕府の慢性的な財政難と元禄、化成文化

しかし江戸時代中期の1716年ごろから人口の伸びが止まるどころか減少傾向にあった。これはなぜなのだろうか。人口爆発が経済の発展によって人々の衣食住が改善され、死亡率が低下したところから導かれるならば、その発展をある程度終えたと見るべきだろう。加えて江戸時代中期から後期にかけて経済は停滞し人々の生活は苦しくなっていた。日本各地で一揆が起こったのはこのためである。家康が鋳造した貨幣は決まった比率で金、銀が含まれていた。つまり金、銀の産出量以上に貨幣を発行することができず、金銀の埋蔵量の限界が貨幣発行の限界に直結する金銀本位制であったのだ。江戸時代初期は経済が発展し物が大量により、効率的に生産されるなか発掘された金銀から貨幣を鋳造し、徳川三代にわたってばらまきを行うことでインフレにつながり経済は成長した。しかし金銀は無尽蔵に日本の土地に眠っているわけではなく、家光の時代には掘りつくされ五代将軍綱吉の段階で幕府は金銀の貯蓄を切り崩していく厳しい財政状況に追い込まれたのだ。結果、強靭な生産能力に対し貨幣の供給が追い付かず貨幣の価値が上がるデフレに陥った。ここで荻原重秀が貨幣に含まれる金銀の含有量を減らす貨幣の改鋳をするべきという進言を綱吉が取り入れ、財政を立て直し、元禄文化と呼ばれる好景気となったが、度重なる災害や明暦の大火で瞬く間に貯蓄を使い果たしてしまった。デフレは貨幣の価値が上がり人々が購買や投資を行う意欲を衰退させ貯蓄に回してしまい、お金の流れが滞り景気が悪化する現象だ。江戸時代中期幕府は慢性的な財政難に陥り経済が停滞することになった。加えてこの頃から新田開発がある程度終わり、米の供給に余剰が生まれ、人々の需要が米から諸色に移ったことで米の価格が下落し、年貢で生計を立てる武家や幕府は質素な生活を強いられ逆に商人は幅広く経済活動を行い富んでいったという逆転現象が起きる。幕府の財政難を解消するために八代将軍徳川吉宗は享保の改革を行い武家、幕府の収入源である米の価格を上昇させることによって幕府の財政再建を図ろうとした。吉宗が米将軍と呼ばれたのは米価の安定に腐心したことが理由である。まず吉宗は大きな成果を上げられなかった新井白石を失脚させ自身で改革を行った。しかし吉宗自身の経済思想は緊縮財政による財政の健全化という点で白石と類似しておりついに米の価格上昇による財政再建は達成できなかった。万策尽きた吉宗は大岡忠助の貨幣の改鋳を採用し貨幣供給量を増やしデフレを緩和、物価とそれに連なる米価も上昇し幕府の財政に余裕を生んだ。これが「中興の祖」として吉宗が敬われる理由だ。ここから江戸幕府は田沼意次や水野忠成などの貨幣を改鋳し、貨幣供給量を増やす人間と、寛政・天保の改革を行った松平定信、水野忠邦などの緊縮財政で財政健全化を図る緊縮派が交互に幕府中枢で手腕を振るった。例えるならアクセルとブレーキを全く逆の考えを持った別々の人間が交互に押していたのだ。これでは経済が安定するはずはない。最初はアクセルを踏みスピードが出すぎたと感じたらブレーキを踏むというのが運転の基本だが江戸時代後期はアクセルを踏みスピードが上がる前にブレーキが強く入力され経済という車体は失速することになった。江戸時代の金本位制という制度は自国の金銀の産出量に応じた量の貨幣しか発行できないため、思うように貨幣供給を増やせず定期的にデフレに陥る危険性を孕んでおり、この危険性は日本が金本位制を本格的に離脱する1931年まで続くことになる。ただ一つ言えることは江戸時代の人々がモノの生産意欲が高くそれに対応できるほど、貨幣の供給量を増やした反緊縮派は元禄、化成文化という好景気を生んでいるという事実と、引き締めを行うべきタイミングを逸しその結果を無に帰したのが緊縮派であるということだ。人々の生活を経済状況と絡めて見てきたが江戸時代初期の人口増加は経済発展によって人々の衣食住が改善し、死亡率が低下したという移行期間を終えたことや経済的困窮から人口の停滞が起きた。加えて衣食住の改善をしても敵わないほどの冷害や飢饉が多発したためむしろ人口は減少したのである。経済的困窮から人口が停滞したと述べたがこのように考えるならば江戸時代後期の化政文化という好景気の折に人々の生活は安楽になり、人口は増加をすると考えられるはずだがそのような傾向は見られない、これはなぜだろうか。この問いに答えるのは後にしたい。

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今年の3月、4月にコロナ禍真っ只中で暇なテルが書いた人口問題に関する論文じみた文章です。人口や少子化という概念を歴史的に分析し、主に人口と…

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